「感想と考察」ジョーカー 🍰👸🏼ヨハン・ねぼすけ🍰👸🏼さんの映画レビュー(感想・評価)
感想と考察
アーサーの病気(後に虐待による後遺症と判明)である発作的な笑いは、人々との断絶を生んだ。彼が唯一目の前で発作を起こす描写のなかった彼の母親こそ彼の居場所であるように思われるが、実は彼女こそが彼を本当の意味で孤独にさせていた張本人である。彼女はアーサーをハッピーと呼び、「あなたの幸せな笑顔が人々を楽しませる」と言うが、彼の人生に幸せだったことなどなく、彼の笑いは周囲を気味悪がせているだけだった。彼女の望んだ「ハッピー」を演じ続けるためには、彼は蓄積された苦しみと怒りを7種類もの精神薬を使って抑圧し続けなければいけなかった。母親が愛していたのは、アーサーではなく「ハッピー」であった。つまり彼は本当のところ、家の外にも内にも、カウンセラーも含めて理解者などおらず、誰も彼をありのままに受け入れてくれるどころか、認識してくれる人すらいなかった。だから彼は、「僕は人生で自分がずっと存在しているのかわかっていない。」と言ったのだ。そのような現実に耐えられなくなった彼は、同じ階に住むエレベーターで相乗りしたシングルマザー(ソフィー)を、自分を愛して受け入れてくれる幻覚として見るようになる。
仲間の策略も加わり、派遣先で銃を落として職場をクビになった彼は、電車で絡まれた3人のエリートサラリーマンを撃ち殺してしまう。今までであれば子供から痣だらけになるまで蹴られても反撃しなかった彼が、銃を撃ったのはなぜだろうか。
その少し前に彼は劇場でコメディアンになるための勉強をしている。周囲と笑いのタイミングがズレていることに気づき、笑うタイミングを修正するシーンがあった。家に帰りメモのまとめやネタの創作をしながら、「精神病を患うことで最悪なのは、普通であるように振る舞うことを周囲が期待していることだ。」と書いている。自分の笑いの発作を理由に3人から暴行を受けたのは、その現実が改めて突きつけらた形だ。
加えて、自宅で誤って(?)銃を撃ったことでその威力を目の当たりにしたこと、幻覚を必要とするまでに精神に限界がきていたこと、母親に「お金のことは心配ない」と言った直後に、最悪の就職難の状況で職場をクビになったこと。そして3人が自分とは対局の立場にいるエリートサラリーマンであることも要因だっただろうか。
殺害後に駅から逃走し、彼は駆け込んだトイレで即座に落ち着きを取り戻し、舞を踊る。抑圧された怒りと苦しみを、初めて他者に暴力として開放したことで、湧き出る感情を抑えきれずに芸術として表現したのだった。
自分を抑圧する原因となった母親に吹き込まれた虚構の崩壊と悲しい真実、そして息子の代わりに愛されることまで夢見ていた、目標であり敬愛するマーレからの否定、幻覚の発覚。さらに警察の捜査も迫り、これまでの自己を破壊するような出来事の連続に対応するように、いわば生まれ変わった自分を認め、助けてくれる、街中で増加するピエロのマスク。ジョーカーを生み出すには十分な環境が揃っていた。
殺人者からヒーローへ、抑圧から開放へ、排除から受容へ、悲劇から喜劇へ、この映画は様々な価値が一人の人間の体験によってリアルに転換されていく。
この映画が人々の心を打つのは、私達が社会から受容される為に一定の人格を期待され、感情を押し殺し、自分を理解されず、自分であることを許されない、ということを二極化した経済格差の中で日々否応なく体験しているからではないだろうか。そしてその抑圧された苦しみと怒りの開放が、燃え盛るゴッサムの中、悪のかたちで肯定されるのだ。過度な残酷さや性表現もないのに、年齢制限がつけられる理由である。
今回の感想では、あえてラストシーンの考察は含めなかった。それが正しければ映画を丸ごと動かす大きな装置であるが、そうであるが故に、物語の重要性を低下させてしまうように思えたからだ。