劇場公開日 2019年10月4日

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「喜劇なんて主観さ。笑えるか笑えないかは自分で決めるんだ。」ジョーカー 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5喜劇なんて主観さ。笑えるか笑えないかは自分で決めるんだ。

2019年10月8日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

たまたま数日前の深夜、TVで「ダークナイト」を観た。バッドマンを翻弄するジョーカーの小面憎いことったらなかった(と言うものの、基本的にアメコミ映画は観ません。ヒーローの万能っぷりや勧善懲悪のステレオ描写が嫌いなので)。
個人的には、バッドマンの苦悩なんて興味はない。水戸黄門然り、大岡越前然り、どうせちょっとやっつけられるパフォーマンスを見せた後にガッツリ叩きのめすプロレスなのだから。それなら僕は、雲霧仁左衛門や河内山宗俊の物語にこそ強く心惹かれる質だ。美学を持つ悪人や、世の中が作り出しだした道化にこそ、人間の本質が深くにじみ出る世間を見ることができるから。歳をとると、そういう物語にこそカタルシスやシンパシーを感じてやまない。
そしてこの映画には、そんな切なさがあふれていた。

アーサーはコメディアンを目指していながら、笑いのツボが分からないなんてすでに滑稽な悲劇である。どうやら読み書きも満足ではないらしい。もしやLDなのかも知れない。たぶん、子供のころからずっといじめられっ子だった気配がある。clownを職に選んだのだってもしかしたらペイントをして顔を隠せるからなのかも知れない。違う自分になれる快感を得たこともあったろう。
そんなアーサーが、もともと脆かった彼の心を壊すには十分なほどの事実を知ってしまい、精神までも壊れていく様はみじめな弱者でしかない。人生を諦観していたアーサーが、とうとうやけっぱちになって「狂ってるのは僕?世間?」と問うまでに乱れ、やがて自らが秩序の破壊者へと変貌していく。なんと悲しいことだろうか。

そんな堕ちてジョーカーと化けていくアーサーを、怪優ホアキン・フェニックスがものの見事に体現していた。この役者、その役作りには敬服する。「her」や「ビューティフル・デイ」などの彼も素晴らしいが、このアーサー役の彼もまた格別の存在を成している。鏡の前の彼も、走って逃げる彼も、痩せ身で不健康な彼も、限りなく、役に没入しているように見える。メイクした「道化師の涙」でさえも本当の涙を隠すためとしか思えなくなった。だから、アーサーじゃなくてホアキン・フェニックスに手を差し伸べてあげたくなるような気分にさせられてしまう。

クリームの「white room」が堕落していくゴッサム市に融け合い、「send in the clowns」のメロディがジョーカーの人生を笑える悲劇へと導いていくようなラストを観ながら自問する。
で、この映画を観ている自分はどっちだ?と。
顔を隠しながら、災難を恐れてその場から去る”善良”な市民か?
ヘタクソなステップを踏むピエロに喝采を送る、怒れる市民か?

栗太郎