「思春期に求められる処方箋の一つ」天気の子 nikiさんの映画レビュー(感想・評価)
思春期に求められる処方箋の一つ
間違いなく傑作と呼べる映画の一つ。
この作品の問いかけは単純に見えて奥深い。
つまりヒロインの天野陽菜をとるか、東京(セカイ)をとるかというという選択なのだが、この作品には但し書きとして『救済はありません』と書かれているのが特徴だ。
多くの映画、多くの作品、多くのセカイ系が、ヒロインを選んだ場合に第三の道、つまり救済ルートが用意しているのに対し、新海作品では容赦なく東京が沈んでしまう。
果たして東京を沈めてまでヒロインを救うのは正しいのか?
それを正しいとする理屈はなんだ?
主人公の帆高を取り囲む状況や大人、そして社会は、生贄を肯定し、その正しさを理屈として説得してくる。だが帆高は衝動のみで一切を駆けて行こうとする。
説得に応じず、反社会行為を繰り返す主人公はある種異常に見える。
だが普通に考えてみれば、16の少年が大人と議論として論破できる筈も無い。少年の武器は只の向こう見ずな衝動だけである。
それこそが、大人である我々が不快に思い、脅威に感じる唯一であるから、この映画は衝動だけを武器に立ち回る。この映画が賛否分かれてしまう理由は此処だろう。
止めてくれ新海!!子供たちの抱えるその衝動を肯定しないでくれ!!と叫びたくなるような内容であったが、同時に思春期の衝動を抱える若者にとってどれだけ救いになるのだろうと、考える自分もいた。
象徴的なのは帆高が線路を駆けていくシーンだろう。
整備員は注意し、高架下から帆高を指差し笑う通行人は、正しく我々大人の象徴だ。
それでも帆高は脇目も振らず、耳も貸さず駆けていく。
この作品の稀有にして素晴らしい点は、衝動のみに突き動かされた若者の末路をちゃんと描いているところである。
主人公は保護観察処分になり、あれだけ嫌がった親元に戻されている。
ヒロインもやはりあえなく保護されてしまっている。
二人は別々に別たれ、天野陽菜は経済的事情からだろう、スマホも持っていないと作中で明言され、連絡もとれない二人は、ニュースから流れる東京沈没の報を見る度に、果たして自分は正しかったのかと一人自問を繰り返したのだろう。
本来慰めあう関係にある二人は、互いに頼れず、自分で答えを探すしかない。
三年も経てば衝動は静まり、後悔も募るだろう。
だが沈没した東京をバックに再会した二人は、同じ答えを出し抱擁を交わす。
『間違っていない』
この結論を臆面もなく描ききったからこそ、この作品は新しく、素晴らしいのだ。