「大ネタバレ」天気の子 Naruさんの映画レビュー(感想・評価)
大ネタバレ
映画 天気の子を2度見てきました。小説も読ませていただきました。結論から言って、大満足の作品でした。
誰かに頼らず、指図されることなく、光の中に入りたい。自由を得たい。自分らしくありたい。そう願う主人公の家出少年帆高が向かった雨続きの東京にいた100%の晴れ女陽菜。帆高は自分の中での正解というものを突き詰め、それが正解だと信じ、自分を信じ、世界の在り方が変わってしまうと分かっていても、行動をする。それに応える陽菜のことも、また勿論帆高のことも、だれも責めることはできないのでした。
映画や小説では、『帆高が家出をする理由』を明記することはありませんでした。最初映画を見たときは僕にもわかりませんでしたが、小説を一読し、再度映画を見て、自分なりにその理由がわかった気がします。
帆高は光に入りたかった。高校生というものは、思春期も熟し、自我というものが明確になってくる頃です。小説の一部でこんな描写がありました。
"つい先月(島にいた頃)まで誰かに命令されることや押さえつけられることをあれほど憎んでいたのに。"
"自分が今までそんな経験をしていなかったことに、僕は今さらに心の底から驚く。そして唐突に、すとんと理解する。" "僕を叱りながら、お前はもうちょっとマシになれる、彼らはそう言ってくれているのだ。"
帆高はK&Aで須賀と夏美に出会い、多くの雑務を任され、叱られます。
島では受け入れられなかった行為が、東京では受け入れられる。いや寧ろ、成長させようとしてくれているとさえ捉えられる。島から東京へ家出してきたことによって、帆高は180度 物事の捉え方がかわったのです。これは、帆高の中にある あの光の中に入りたいという願いを 自身の中でおよそ半分くらい達成した気分になっている状態なのだと僕は思いました。東京に出て1人で生きていくんだ、と強い思いを持った帆高のスタートダッシュ。帆高は島から出て光を探しに行きたかった だから家出したんだと、僕はそう捉えました。
作品中で帆高は強い信念を持ち続けています。自分自身が行動の指針であり、大義でありました。それは決して自己中心という言葉とは違うと僕は受け取りました。
この部分は他のレビューも見てわかる通り、かなり賛否が分かれている部分だと思います。しかし、水商売に身を染めそうな陽菜を守ろうとする時も、警察を振り切ってでも陽菜を助けようとする時も、それまで沢山の経験を積ませてくれた須賀にさえ拳銃を向けた時も、帆高の思いはいつだって不動なのです。目的のために手段は厭わないということは、一見自己中心的に捉えられるかもしれない。でも、本当にこれらの行動は自己中心というマイナス的な意味をもつ1語で済まされるものなのか?というところなのです。常識人に対抗する帆高は ピストルの引き金さえ引きます。常識人が望む晴れた世界のために、愛する彼女を見捨てる行為を帆高が望む訳などない。寧ろ警察に捕まって、世間が晴れに喜ぶあの場面ですんなりと帆高が陽菜を諦めていたとしたら、もうそれは帆高が帆高じゃなくなっているとさえ言えるでしょう。家出少年帆高が取った全ての行動は、必然的行為であり、誰も止めることも非難することもできないのです。陽菜と大空の中で再会し、陽菜の『私が戻ったらまた天気がーー』という言葉に対して、『天気など狂ったままでいい』と即答した帆高は何よりも白く、揺るぎなく、美しかった。そこに僕は胸を強く打たれました。
帆高は『世界の形を決定的に変えてしまった』というメッセージを残していますが、それで良かったんだよと僕は言いたいです。『世界の形を決定的に変えることができた』でいいんじゃないかなってくらい。
帆高が拒絶したのは"1人の犠牲を経て、得ることができた晴れた現世界"であり、選んだのは"荒れ狂った天候の世界の中でも誰1人として犠牲が生まれない未来"であり、須賀が帆高に言い放った『もう大人になれよ、少年』『誰か1人の犠牲で狂った天気がまともになるなら、誰だってそれを望むだろ』という世間を風刺するようなこの意見は 正義に反した大多数の人間の本当の自己中心的発想なのだと思いました。
それが現世における思想とは全くもって別として、この映画、新海監督の中における視聴者に提供したいエンターテイメントワールドの中で描かれた帆高の行動は、真に受け入れるべきものでした。
ラストシーンの『僕達は大丈夫』という言葉。主題歌や挿入歌、BGMを担当したRADWIMPSのEDテーマから取った言葉であったそうでしたが、この曖昧に流したような、ぱっと見自分らだけが良ければ大丈夫と聞こえそうなこの言葉も、作品全体を振り返ってみればやはり、帆高の信念に基づいた『大丈夫』なのだとおもいました。
また須賀という人物。僕はこの人物に奥行きを感じています。
作中で、大人になれよ、少年。もう島に帰れ。というシーン、警察の人と話している時に不意に涙を流すシーン、それから何故か帆高より先回りして廃墟ビルに入っていたシーン これらを何となく見ていた僕ですが、他の方の推察を見てそういう見方もあるのだなあと思いました。
僕が拝見したその方の推察をまとめると、須賀の奥さんはひょっとしたら天気の巫女だったのではないか、という説でした。喘息持ちの娘は雨の日になると喘息が悪化してしまう。だから須賀の妻は娘のために何度も天気を晴れさせようとして天に消えた。空からは奥さんのリングが降ってきて、須賀はそれを付けているために薬指にリングが二つ。全てを知っている須賀は、帆高と自分を重ね、大人になれよ、と告げることが出来、警察と話したとき自然に涙が出て、あのビルにも先回りできた。
K&Aに入りたての帆高にお酒を何回も渡していたのもきっと、須賀も経験したであろう少年時代ならではの帆高の熱意を冷めさせて、世間一般のような感覚を持たせようとする須賀の意思表示だったのかななんて 想像したらより一層面白かったです。
ところで作中に君の名は。の登場人物が数名でてきていたけど、あれに関してはよくわかりませんでした。懐かしいなあとは思ったけど、それくらい。
君の名は。ではラストの階段での再開シーンは晴れていたので、もしもあのシーンが時系列的に成立しないとなるので有れば、新海誠ワールドの中で帆高と陽菜は"世界の在り方を決定的に変えてしまった"のかもしれませんね。
そんなこんなで、文章を推敲することなくこんなにも書いてしまいました。誤字脱字等お許しください。あくまで感想なので。
皆さんも是非、見てみてください。