「愛を値踏みする」天気の子 Hiro.S.さんの映画レビュー(感想・評価)
愛を値踏みする
新海誠さんの作品や世界観を熟知しているわけではないことと、功利主義・費用便益を熟知しているわけではないことをお断りしたうえで、感想を書きます。あえてこう言う必要もないのかもしれませんが、あくまで個人の感想です。
東京の価値(=経済活動がもたらす金銭的価値と命の価値などの非金銭的価値を含めた価値)と「愛」の価値を天秤にかけた作品だったと個人的には思います。
この作品に共感できない方も多いようですが、その原因の一つに、東京に住んでいる無数の人たちの価値や犯罪の費用と便益を考えると、その方にとっては「愛」よりも東京の価値がまさったということかなと勝手に思っています。
言い換えると、大勢の生活を犠牲にしてひどいやつだ、犯罪は費用が高い(便益がない)などの価値観を持っているのかなと。。。
その一方で共感された方は、むしろ彼らの勇気や愛する気持ちなどの「愛」の価値が東京の価値を上回ったのかなと。。。
そして、重要なのは、それぞれの個人が主観に基づいて、暗に費用と便益を天秤にかけているといったことなのかなと。
個人が持つ物差し(=費用と便益による価値判断)で社会的な問題を値踏みすることは、ある意味正しい側面もあるけれども、それだけでは割り切れない部分がありうるでしょう。
いろんなレビューを拝見する中で、「トロッコ問題」に当てはめて考察されている方もそれなりにいらっしゃいました。それは自分の費用便益を社会的な問題に対して行う行為でもあるから、非常にこの作品と相性がいい。
トロッコ問題とは
1人と5人だったら、功利主義は1人を犠牲にし、5人をとる。といった話です。
そのトロッコ問題の話に当てはめて、僕が考えたことは
でも、1人の方に、自分の最愛の人がいたとしたら?
それでも、5人をとるのが功利主義的でしょうか?
それとも、社会的な功利ではなく、個人にとっての功利が選択にとって重要だとしたら?
僕にとっての恋人の価値と君にとっての僕の恋人の価値は同じではないという前提に立つのであったら?
つまり、個人が一人一人に置く価値は、一人一人の個人で違うという前提ならば、功利主義的に1人を選択するのが正しいということになるかもしれません。
これは、ベンサム的な功利主義に立つか、JSミル的な功利主義に立つか、それともそれ以外の価値観に立とうとするのか、そういった葛藤に対する問いかけなのかなという感想を持ちました。
そういった解釈の中で、さらに付け加えると
ヒロインの子の犠牲を何も知らずにのうのうと一般の人は生きている的な描写がありますが、そのこともまた面白いかなと。
実は、僕たちは恋バナや恋愛映画から、たくさんの便益を受けています。でも、それに対して、正当な対価をそのストーリーの提供者に支払ったことがあるでしょうか?
恋バナに花を咲かせる人は少ないくないですが、そこから得られる便益を支払ったことがあるでしょうか?
映画だったらあると言えるかもしれませんが、それは本当でしょうか?映画に支払いの中は、作品に対する支払いであって、恋愛の話題の提供者に対する支払いではないかもしれません。
そういった、愛の外部経済的な話として理解してみるとそれはそれで面白いのかなと。
人は、暗に功利主義的あるいは費用便益的な発想で物事を考えていて、それをさらに、無邪気に他人に押し付けてしまう節があるといった点に気付かされた気がしました。
そして、暗に功利主義・費用便益的に考えていることを意識してもなお、功利主義に立っていられるのか、そこに個々人に対する問いかけがあるのかなーーと。あるいはどういった功利主義をとるのか、何を費用とし何を便益と私たちは考えたらいいのかといった問いかけでもあるのかなーーと。そういった意味では非常に経済学的な作品でもあるなーーとか。あるいは合理性?
そういった感想を持ちました。
読める文章になっているかわかりませんが、感想が書きたくなる作品でありました。あとこういったレビューは鼻につく感じで、嫌われる気がしないでもないですが、、、許してください笑