「苦しい状況にこそ、ひときわ輝く光」天気の子 Y2_tamamushiさんの映画レビュー(感想・評価)
苦しい状況にこそ、ひときわ輝く光
いろんなことを考えさせてくれる映画だった。
天気とは、天の神様の気持ちという捉え方ができる。
晴れを願う陽菜は、巫女であり、巫女は神子とも書く。
「天気の子」とは言い換えれば「神の子」である。
神の力の下においては人間はあまりにも非力だ。
人間は神に祈る、お願いする、非力な存在でしかない、そんな神や自然に恐れで受け止める日本的な宗教観が感じられる。水に浸かった首都の描写は、人間の非力さの象徴だ。
一方で天候は人間の気持ちの反映という見方もできる。
これからの世の中は決してハッピーではない。誰もが漠たる不安を抱いている。災害、犯罪、経済事情。
そんな人間の気持ちを長雨という天候で現されていたのではないか。
都心の水没は、これから衰退を余儀なくされる日本の実情を象徴しているようにも思える。水に囲まれた新国立競技場の姿は、東京オリンピックが終わった後の日本は、かつてのような経済発展はとうていありえない、ということを示唆していると受け止めた。
夢も救いもない現実が突きつけられていたように思うが、この映画の救いがまったくないのかといえばそうでもない。
安心できる人たちと食事ができることの穂高の喜び、瀧が帆高たちに祖母に良くしてくれたことへの感謝、帆高が3時間悩んで指輪を買ったときの三葉の「わたしだったら絶対嬉しい」という言葉。人間の幸せはそんなささいなところにある。自分が大切な人が幸せなら幸せを感じることができる。それをさりげなくいろんな状況で描いているところが好きだ。
それは現実が厳しいほど輝きを放つ。帆高が家出をしなければならないほどの境遇に置かれたり、チンピラに殴られたり、陽菜の母が亡くなったり、子供だけで生活しなければならない不幸の中でこそ、あまりにも冷たい雨に打たれ続けているからこそ、ことさらに光を持つ。
大切な人と一緒に過ごせること。そんな陳腐とも思える些細なことが人間にとって、「天気の子」「神の子」にとって幸せなことなのだと訴えていたのではないかと思った。