「「行け」と言う」天気の子 じぐべーたさんの映画レビュー(感想・評価)
「行け」と言う
新海監督は『言の葉の庭』のマーケティングに関する文章の中で、この作品は「モラトリアムの最中で悩んでいる思春期の観客、モラトリアムから脱し社会に入ったはずがそこで躓きを経験したことのある観客」に向けた作品である、と書いている。
また、「他の多くのアニメーション映画のように、家族や人との絆の素晴らしさを描いた作品でもありませんし、労働や共同体の暖かさを描いてもいません。そのずっと手間で立ちすくんでいる個人を描いている作品です。しかし、誰もが社会に属する前は個人だったのです。家族や社会的地位を獲得するはるか手前で、孤独に立ちすくんだことがあるはずです。(極論すれば、そういう経験のない人にとっては娯楽メジャー以外のアニメーション作品は本来不要なのです。)」とも述べている。
前作『君の名は』や今作はより“メジャーなもの”を目指してデザインされているとはいえ、この監督の姿勢はずっと変わっていないように思う。
そして今作ではそれがより強調されている。
例えば今作の小説版のあとがきで監督は「映画は学校の教科書ではない」「正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを ―例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いを― 語るべきだ」そういった決心のもと「「老若男女が足を運ぶ夏休み映画にふさわしい品位を」的なことは、もう一切考え」ずに製作した、と語っている。
もちろんここで監督の言っている「道徳とも教育とも違う水準で、物語を描こう」というのは、ある人が誤解しているように、作中のいわゆる「非行」や「自分のやりたいことのために周りに迷惑をかける」という言動を良しとするということではない。
そうではなくて、「社会」とか「ルール」とか「モラル」とか、そういうもののずっとはるか手前で、若い時には誰もが持っていた(そして大人になると忘れてしまったり、見なかったふりをする)、世界に、誰かに、何かに、必死に手を伸ばし、触れようと、知ろうともがく(パンフレットの監督の言葉を借りるなら「希求する」)抑えきれない衝動ともいうべき、そんな感情を描こうとしているように思う。
だから、主人公たちの行動に納得できなかったり、好きになれなかったり、話の運び方が少々雑に感じる方が多いのも無理はない。
監督はそうした反応が生じるかもしれないことはよくわかった上で、それらを、我々観客にぶつけてきているからだ。
例えば主人公の家出の動機が描かれていないという批判も一部ではあるが、この点に関しても監督はパンフレットで、内省する話ではなく、憧れのまま走り始めそのまま駆け抜けていく少年少女を描きたかった、と語っている。
まさにこうして、自分勝手でわがままで無責任で幼くて、それでも、必死に、とにかく走り続け、走り抜く主人公の姿には個人的に感動を覚えた。
どんよりした天気のように“空気”の淀んだ世界で、諦観と嘲笑に満ちた世界で、少しずつでも確実に狂っていく世界で、立ち止まりそうになっている若い人たちも多いかもしれない。
悪者を倒せばすべて元どおり、なんて展開はもうフィクションでもあまり見かけなくなった。
でも、主人公たちは、変わってしまった世界で、いや変えてしまった世界で、そこで生きていくことを選んだ。
きっとこれから新しいものを創り上げていくことだろう。
新しい喜びや価値観や世界さえも創り上げていくことだろう。
そんな希望に満ちた物語だ、と思う。
「大丈夫」、そんな風に語りかけてくれる物語だ、と思う。
そして新しい時代を生きていく若い人たちに、「行け」と言う、そんな物語だ、と思う。
※以下ネタバレ注意※
ちょっとカッコつけて書きましたが、トラックを爆発させた後のシーンで、主人公たちがその事を気にしている様子が微塵もなかったのが、ひっかかっています。あまりに身勝手過ぎないですか……。あるいはニュース映像で死者がいなかったことを報じるシーンでもあればほっとしたのですが。
ここらへんどう受け止めたら良いでしょうか……?