「怪作にして大傑作!幾重にも繰り返す模倣の先は…」シークレット・ヴォイス ありきたりな女さんの映画レビュー(感想・評価)
怪作にして大傑作!幾重にも繰り返す模倣の先は…
映画館にどうしても行けず、オンライン上映で何とか拝見できたことを本当に幸せに思った。
新年ですがこれは…今年のベストにして凄まじい怪作にして大傑作が爆誕!というイメージ。
簡単に言えば、
本物/偽物
母/娘
と鏡合わせのような、番のような女たち数組の物語と私は捉えたんですが、
(冒頭でリラがiPadに写る自分の顔をぼんやり眺めている・病院から出てくるシーンでは車窓にヴィオレタが写っている・最後は鏡の前でリラに扮するヴィオレタの様子が、ぼやけたピントのまま物語が閉じられる時点で、明確にして素晴らしい演出…)
一方で何かを推して生きてる自分も含め、いつかそうなり得てもおかしくない自分を鏡のように見てしまったことが何より怖かった…銀幕はいつだって我々を映す鏡なのだと…
終始画面は冷たい色調と不穏な雰囲気で満ち満ちて居て、最後の最後にそれが弾け散るような印象が堪らなかったのですが、『マジカル・ガール』すら未見だけれどもおそらく監督の個性なのかなあと。
特にリラが海で意識を失ったシーンから映画が始まり、ヴィオレタも中盤と最後で海に対峙するわけで、海がこんなに生々しく恐ろしく捉えられている映画も少ないような…エンドロールも波の音だけだもんね…
中盤でリラが発声練習しているうちに叫び出すシーンから海のショットに切り替わり、リラの持ち歌であるエレクトロなサウンドがガンガンに鳴るところとか、もう監督のセンスというかさじ加減が最高です。
さて、核心に迫っていきたいのですが、この作品の結末は解釈分かれそうだけど、これって100%悲劇なんだろうか?と思うわけです。
ずっと歌手を夢見ていた母親の幻影に囚われ、「リリ・カッセン」をコピーして成り代わっていたリラは、自分のせいで母を死なせた(ほぼ殺したようなもの)ことで、同時に「リラ・カッセン」も殺めたようなもの。
そこから10年の空白を経てヴィオレタを見つけ出し、結果的には
母親→コピーした自分→更にそれをコピーするヴィオレタ
という、幾重にも繰り返す模倣を逆方向へと辿っている。
面白いのはラストで、母親のコピーに過ぎないと告白したリラは、結局「リラ・カッセン」という存在を続けていくことをやめる。
その代わり、新しく「ヴィオレタ・カッセン」として、元々自分のコピーだった存在を、自らの"原本"とする。
つまり、先程挙げた三重の矢印は、ラストにしてリラ←ヴィオレタと逆向きへと転じるわけです。
一方で、ヴィオレタの視点で考えると、人生の全ての拠り所だった(言い方は悪いけど)「推し」に見出されるわけじゃないですか。
初めてリラと会った時に、いつか自分のカラオケバー(店名が"ユニーク"=唯一無二という皮肉…!)にリラが来て出会うんじゃないかという妄想を、ご本人の前で話せない!と恥ずかしがる姿などもう、物凄くわかるー!!!と思ってしまったのですが。
それくらい大切だった人と、まぁ紆余曲折経て結局コピーに過ぎなかった自分が、今度は「コピーされる」側になること。
そして、諸々の秘密を守るため、同時に娘のこと等含め「ヴィオレタ」としての人生に行き詰まりを感じたため、自らは大好きだった「リラ」の扮装をして、リラとして死んでいく覚悟。
「リラ・カッセン」を、彼女が自分で葬るんですよ。当人は「ヴィオレタ・カッセン」として自分の人生の続きを生きて貰う。
この映画、もう本当に凄すぎませんか?人間関係というか構造が。
ある意味"本物"になったヴィオレタの結末は、何かを推すことで生きてる人間としては、度が過ぎた故の悲劇でもあり、
「推す」という行為の最上級の果て=わたしはあなたになる、あなたはわたしになる、という突き上げた絶頂みたいな瞬間で終わるような、何とも言えない人生の深みと悦びすら感じてしまいました。
まぁどちらの人生もハードモードだけど、「それでも、生きていく」業を背負ってるリラの方が生き残った故しんどいかも、とも思った次第です。
ちなみに、1つだけ疑問だったのはリラの記憶喪失に関して。
自分の名前や曲のことを忘れていたのに、最後に母とのことをいきなり饒舌に話し出すもんだから、えっ?ってなったんですけど私だけでしょうか。
本当に突然記憶が蘇ったのではなく、もしや最初から自分の偽りの歌手人生に自ら幕引きするための壮大な嘘をついていたとしたら…と一瞬頭をよぎり、ゾッとした。
あと、聞き間違えかもしれないけど、冒頭でブランカからiPadで自分の写真見せられた時、一瞬「リリ」って言ってから「リラ・カッセン」って言い直してるみたいに聞こえるんですよね…スペイン語わからないんですけど。
もしブランカにもリリの存在を言おうとしてたなら、やっぱり全部嘘だったのかなあとも思うし、
でもヴィオレタのことは検索でたまたま見つけたみたいな感じではあったし、何とも言えないのでこの辺りどういう解釈があるのか聞いてみたいです。
それから、リラのマネージャーさんであるブランカとの関係性も忘れてはいけません。
彼女は子を持たず、リラを娘のように大切にしていたけれど、ラストに来てその「愛情」は歌手としてのリラ・カッセンにしか向けられてなかったし、
リラも母との秘密を彼女には言わなかったわけで…擬似的な母娘の関係だけれど、血縁のないこの二人には秘密を介することはなかった。
そこがリラと母、ヴィオレタと娘との関係と違うのだと思います。だからこそ、最後に彼女は去ることしかできなかった。
とは言え、「守るものが何かわからないまま10年もあなたを守ってきた」と溢すブランカの姿もかなり見ててしんどいし同情はする…
演出に関しては、音楽と映像のセンスが『ネオン・デーモン』のレフン監督みたいな、シンプルで格好良くて好き。
折り紙や乱歩とか琳派みたいな金色とか細やかな日本趣味も美しい。
特に折り紙に関しては、リラとヴィオレタの運命を上手く無言の内に語っていて素晴らしかったです。
上手く折れない折り紙は、一度平らに戻してから折り直せば良いという、冒頭のブランカの言葉。
その「舟」はカラオケバーのお酒の中で沈みかけながら、歌詞に出てくる通りの「新たな客」を乗せ、やがてその客が舟を「鶴」に折り直す…
長くなってしまったけれど、最後にひとつ。
ヴィオレタは「在ったかもしれないわたし」だった。
わたしのペンネームが「ありきたりな女」なんて名乗ってる時点で察してほしい。
思えばヴィオレタが「人生最良の日」だと思ったあの日…娘を生み、リラを知った日…その日から、この運命の歯車は回り始めていた。
娘のために夢を諦め、新しく得た希望がリラだった。破滅の予感は既に訪れていたのだから、人生は皮肉に溢れている。
彼女が中盤で話していた台詞がすごく刺さったので、引用して締めたいと思います。
その後でお人形さんに「頑張れば君は輝ける」なんて言わせるこの映画、とてつもない。
「あなたは たぶん平凡でありきたりな人間だろう
特別になろうと 無駄な努力をしないで
現実を受け入れなさい
そのほうが たとえ完全に満たされなくても
少なくとも 惨めな人生を送らずに済む」
コメントありがとうございます。とても光栄に思います。
あの娘さん、もうこの子酷すぎると思ってあまり触れられなかったのですが、
この映画はやっぱり母と娘の呪縛みたいなものが軸になってるので、大事な存在ですよね。
ヴィオレタにとっての「人生最良の日」は、娘を生み、リラを知った日でした。
娘のせいで夢を諦めて、でも新しい希望としてリラを応援し始めて、
結局はリリとリラ親娘の呪縛を終わらせるため、そして自分と娘の関係に行き詰まってあの結末になるわけですから、
リラと娘さんは、ヴィオレタからするとファムファタールのような存在なのかなあと。どうあがいても逃れられないし、セットで突如人生に出現したようなものなので。
一応本文も一部加筆修正したので、新たな発見があればお聞かせいただけたら嬉しいです。