「「ラブ」はどこにあるのか」劇場版おっさんずラブ LOVE or DEAD くーちさんの映画レビュー(感想・評価)
「ラブ」はどこにあるのか
劇場版のあまりにも杜撰な内容に驚愕し、twitterで感想を検索したところ、絶賛の嵐で二度驚愕。どこかに感想を吐き出したくて、衝動的にこのアカウントを取得してしまった。
「映画」への愛も、LGBTQに寄り添うという姿勢も、あまりにも希薄な映画だった。
必然性の薄い設定に杜撰なストーリー展開、一貫性のない心理描写、それらの物語の致命的な欠落を埋めるようにこれでもかと詰め込まれる単純な笑いと萌え要素。これがテレビの深夜番組やネット配信の動画ならば、違和感はない。自宅のソファに寝転んで、時々再生を止めて休憩したり、あるいはお気に入りの箇所を何度も見直したり、そんな風に観るにはうってつけの内容かもしれない。でも、この断片化された笑いと萌えの集積を「映画」として消費している事態に、猛烈な居心地の悪さを覚えた。
「映画」というコンテンツに特別なものを求める感性が、時代遅れなのだろうか。外界から閉ざされた暗闇の中で、一定時間、連続して、偶発的に同席した他者とともに共有する、非日常的な世界。そうした性質を持つメディア芸術に見合う完成度の映像であるとは、私には到底思えなかった。
そして、嫉妬とキャットファイトによって表現される男性たちの関係性には、「同性愛者」へと向けられた異性愛社会のステレオタイプが見事に具現化されている。
「同性愛者」だからといって、常に、嫉妬に狂って裸で水を掛け合ったり、業火に焼かれて涙ながらに愛を告白したり、あるいは遠く引き離されたり、そんな風に喜劇と悲劇ばかりを行ったり来たりしているわけじゃない。「同性愛者」にも、かけがえのない日常がある。現実のLGBTQの多くは、そのかけがえのない日常を守るために、法的に、社会的に、様々な形で格闘し、また一方では多くのシスジェンダーの異性愛者と同様、親密な関係性を維持するために日々心を砕いている。この「映画」には、そうした闘いや日々の営みに対する、些かの敬意も見られない。
笑いを含んだニュアンスとは言え、タイトルに「ラブ」を掲げているにもかかわらず、愛が希薄なのだ。「映画」に対しても。セクシュアル・マイノリティに対しても。
劇場版を観て、自分が思っていた以上に「おっさんずラブ」というコンテンツに愛着を持っていたことに気付かされた。多くの方が書かれているとおり、キャストの皆さんは素晴らしい。だからこそ、彼らが生きる世界の土台となる部分をないがしろにするような内容に、心底がっかりしてしまった。