マイ・ブックショップのレビュー・感想・評価
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雰囲気がテーマに合っていて見やすかった
静寂に包まれた映画で、作品のテーマに即した雰囲気で非常に見やすかった。確固とした原作があった為なのだろうか、安心して観賞することができた。
刺激やドラマチックなものを求めるとやや物足りないかもしれない。
本というのは読書とということばかりではなく、その容姿や手触りも魅力的だったなぁということを今一度思い起こさせてくれるような作品だった。
心に残る名作
映画やテレビが画面に向き合って映像や音声を受け取る受動的な行為であるのに対し、本を読む行為は作者と横に並んで同じものを想像する能動的な行為である。それは作者と読者の、時空を超えた共同作業でもある。
作者は読者が想像しやすいように輪郭を浮かび上がらせるような表現をし、読者はその輪郭を上手に描いてみることで作者とイメージを共有する。作者の表現が正確であれば複数の読者も同じ輪郭を頭に描けるだろう。あるいは、作者が意図的に細部を省略すれば、個々の読者の経験や想像力の違いによって、それぞれに違ったイメージを持つことになる。
多くの場合、作者はひとつの作品で詳述と省略を使い分ける。だから読者による理解の違いが生じることが多い。同じ読者でも十年後に読んだら、同じ作品に対して異なった理解をすることもある。読んだ本を原作とした映画を観たときに違和感を感じるのは、人によって理解が異なる上に、イメージを映像にするときに更にデフォルメが生じるからである。百人の人が読めば百通りのイメージがある。本と向き合うことは自分自身の経験や想像力と向き合うことである。問題はどの本を読むかということだ。
本作品は、主人公フローレンス・グリーンを演じたエミリー・モーティマーをはじめ、役者陣は名人級の人ばかりで物語は大いに盛り上がる。イギリスが舞台だから英語は上品だ。アメリカ人ならFuck off(出て失せろ)というところをLieve(立ち去れ)というところなど、アバズレではない御婦人の言葉に相応しい。
フローレンスが本屋の仕事は孤独ではないと言うとき、彼女は並べられた背表紙の向こうに広がる、たくさんの作者たちの熱気に包まれている。本屋は出逢いの場なのだ。沢山の本が読者の想像力との出逢いを待っている。人は未知の他人と出逢うように本と出逢う。人に出逢うことで運命が変わることがあるように、本に出逢うことで運命が変わることがある。出逢いはたいてい偶然だ。探していた本の隣にあったとか、文庫なのに平積みされていたとかいったときだ。
そしてそのとき、本屋の店員の役割が重要であることに気づく。探していた本の隣に運命の本を並べたのは店員である。運命の文庫本を平積みしたのも店員だ。以前ある本屋で「極真拳」「少林拳」といった格闘技系の本の中に「土門拳」の写真集が混じっているのを見たことがある。ちなみに土門拳は人の名前で、知る人ぞ知る著名な報道写真家である。戦後12年目の広島を題材にした「ヒロシマ」という写真集が世界的な評価を受けた。
多分土門拳のことを何も知らない店員が並べたのだろうが、一概に悪い例とは言えない。格闘技に興味を持つ人の中に、土門拳の広島の写真を見て衝撃を受ける人もいるかも知れない。そもそも土門拳の写真集を置いてあるところにその本屋の価値がある。
インターネットで探してスマートフォンで読める電子書籍は便利だが、実際の本に比べて温かみがない。本は印刷屋、製本屋、そして本屋と、沢山の人の手を介した上で読者に届く。本屋の本棚に並んだ本には、印刷の色やカバーの装飾、イラストや挿絵など、作者だけでなくその本が売れればいいと願う人々の気持ちが詰まっている。そして何より、出逢いがある。店主が商業主義に陥らないで、多くの本を博学的に読み、店に訪れる人々に本との出逢いをお膳立てしてくれる本屋は、街にとって貴重なファシリティである。主人公フローレンスが目指したのは、そういう本屋に違いない。
街の人々の無理解と有力者の横槍にめげず、長いものに巻かれることもなく、ひたすら本屋としての王道を営むフローレンスには、あなたには勇気があると言って励ましてくれるブランディッシュ氏だけでなく、知識と想像力の宝庫であるたくさんの本が味方についている。頑張れ、フローレンス。
本作品の唯一の伏線となったストーブのシーンが回収されたラストには、受け継がれた夢の続きのような余韻があった。心に残る名作である。
静かにグッとくるラスト
だるさを感じさせない、清い小川のように流れて行くストーリー表現は、飾り気のない物静かで穏やかな芯の強い主人公そのもの。ラストの小さな「あ、そうだったのか」といった気付きがとても心地よい。圧倒的な権力に八方を塞がれながらも、無邪気で強い抵抗にスカッとする、じんわりした感動が長時間続く作品。
オールドハウス
原作未読
イギリスの港町に戦争で亡くなった夫の夢であった本屋を開業した女性と潰そうとする権力者の話。
開店前から融資に難色を示す銀行に始まりあやしげな人物が次々登場。
開店してみたら客は来るけれど、信用出来そうな人間は数える程だし、相変わらず続く妨害工作に胸くそが悪さが増していくばかり。
どう展開していくのかと思ったらこれといったこともなく終了。
勿体つけた様なものもあったけど、それも含めて「え!?それだけ!?」という感じ。
人と読書
最近は、芥川賞や直木賞、本屋大賞などイベント化してて、おまけにテレビでは、読書芸人なる人が沢山いて、文豪の本を喧伝して、あれこれ面倒臭い世の中になった。
本屋が街から減る一方、上手くメディアやネットで取り上げられれば、ネット通販なんかで本が売れるから、それで良いだろうということかもしれない。
読書は極めて個人的な行為だ。
本人が、読もうというモチベーションがないと読めないし、感動するしないもの個人の体験と大いに関わってくるからだ。
この映画は、本を読む人と、本屋と、本を結びつける書店主の物語だ。
作中に取り上げられる「華氏451」は本をテーマにしたSFというか近未来小説だし、今でも読むべきSFとして候補を募ると上位にランクする作品だ。
「ロリータ」は、発行当初はエロ小説に分類されるほど問題視された作品で、今は古典だし、スタンリーキューブリックも映画化している。
こうした本の引用も、エッセンスが効いていて、時代時代で読まれる本はあっても、語り継がれる古典になる本は、決して多くはないのだと改めて認識させられる。
そして、読者も本屋も、ジャンルを選ぶのではなく、読者のもっと奥深いところを揺さぶる何かを見出そうとしていることも示唆してるように感じる。
それは、作者も同じだ。
カズオ イシグロの小説だって、舞台もジャンルもいろいろじゃないか。
大切なのは何を伝えたいかなのだ。
読書は極めて個人的な行為だ。
だから、書評もちゃんとしたものを読みたいと思うし、信用のおける書店主が、面白いと推薦してくれたら、積極的に読みたいと思う。
本屋には、そんな人と本との繋がりだけではなく、人と人との繋がりや、人と…実は作者との繋がりもあるのだ。
この物語は、本屋が減ってる現代には少し皮肉っぽくもある。
また、本が簡単に手に入るようになって、選択肢が増えても、僕たちは本当に良い本に巡り会っているだろかと、ふと考えさせらるところもある。
だが、本も読者も基本的には自由だ。
だから、物語の中だったら、本屋を焼いたって良いじゃないか。
自由には、不自由や、くだらない因習を打ち負かす力がある。
そして、困難や悲しみから人を救う優しさもある。
だから、読書はやめられない。
本屋の書店主と、本屋を阻止しようとするお金持ちの女性の話にとどまらず、いろんなエッセンスが少しずつ散りばめられた作品と思ってもらいたい。
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