「「ケンジさ~~ん」」人間失格 太宰治と3人の女たち いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
「ケンジさ~~ん」
『人間失格』を未読な自分が、太宰治をどれだけ理解しているかは甚だ疑わしい。確か『富嶽百景』は読んだことはある。『走れメロス』は有名だ。『パンドラの匣』は映画で観たが原作そのものではないだろう。しかし、かの作家のスキャンダラスな逸話ばかりは先行して情報が湧いて出る。現代では決して褒められることがない、死も又センセーショナルなアンチヒーロー振りを戦中戦後の短い期間でそれこそ『演じて見せた』クリエイターの毒々しい派手さを切り取ったものが今作品である。蜷川実花の監督ということで、かなり好みそうな題材であろうことは想像に難くない。作中にも多分、太宰の作品のオマージュが散りばめていると思うのだが、前述の通り、読破はしていないので未確認である。幾つかのシーンは大林宣彦的な視覚演出やVFXも施されていて、そもそもが写真家である監督の色彩感覚、構図の思考みたいなものを存分に駆使したことは素直に評価に値できる。
それにも増して、演じる俳優陣の豪華さは、流石蜷川幸雄の遺産とでもいうべき、舞台で引っ張り上げられたイケメン俳優陣を贅沢に投入させたキャスティング力により、強引も又映画制作に於いて重要なファクターなのだと理解させられる程、目を見張らせるものである。そしてその次世代のイケメン俳優も又、惜しげもなく共演させる様は、まるで父親の跡取りとして仕事を引き継ぐが如く、“俳優を育成する”という使命を受け継いだようにもみえた。いつまでも青春映画、女性向け作品ばかりを主戦場には出来ない筈だから、きちんと殻を破って自分を追込む事で、新たな表現を身につけろという叱咤と灰皿が飛ぶような内情だったのではないだろうかと勘ぐってしまう位の構成である。そして、女優陣も又、その私生活や“女優業”という仕事に対しての類い希なる才能と覚悟、そして天賦の才である美貌を実装しているパーフェクトな三人なので、その迫力は凄まじい程である。
さて、それぞれがその能力を遺憾なく発揮すればさぞや驚愕の内容となるかと思うのだが、やはり如何せん、そもそもの題材としての太宰治という人間のスキャンダラスさ、ピカレスクロマンばかりが先走ってしまって、退廃的な部分のみが強調されてしまう印象を受けてしまった。初めから色眼鏡で観てしまうと、そのハードルから飛び越えるのが難しい。結局予定調和というか、今まで語られてるような“太宰像”、そして糟糠の妻、それと太宰の狂気仲間である愛人達という擦り続けられた構図に始終してしまっているのである。確かにもう太宰に対しての新しい見解や、穿った見方であっても突飛でリアリティも持ち併せた解釈は、それら全て模倣かもしれない。そう思うと今作の題材や、テーマそのものに目新しさを産み出しにくいものをチョイスしたことは苦しかったかもしれない。愛する男の子供を欲しがる愛人達、もう何人も育てている本妻、それぞれの立場を群像劇のように作られている構成は、それぞれがもう少し細やかなストーリーが欲しかったと、冗長で間延びしていた後半部分を観ながら感じてしまったのは残念である。そして一番の勿体ない部分は、成田凌演じる編集者の浅さである。あのポジションは斬新であり、そしてそれに応える力量の俳優なのに少ししか生かされていない。普通の味付けに終始しているし、もっとその調味料を振れば味に深みが増す筈なのに勿体ないの一言である。
と、色々とご託を並べたが、先の青春映画の対象性別年齢に対しての新しい視点を育てるということがテーマならばそれも一考なのかも知れないと、悲観的にはみないようにしようと思った次第である。