「復活篇を超えた(悪い意味で)」宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第七章「新星篇」 背中にエンジンさんの映画レビュー(感想・評価)
復活篇を超えた(悪い意味で)
復活篇もかなり強引でご都合主義な映画だった。だが、それでも観ていて「はぁ?どういう意味だ?」と思う所は少なかった。
が、2202は一章から「?」の連続で、最終章の本作で「?」に対する疑問は解消されるかと思ったが放置のまま、新しい「?」が追加されただけだった。矛盾と意味不明、世界観の破壊の連続だった。
レビューで、2202を批判するレビューへの批判として「老害」「オリジナルと比べるだけなら観るな」と言うのが多数。そして、彼らは2202の駄目な所を「新しいヤマト」と言い訳をしている。
自分はリメイクなのだから、オリジナルのままに作る必要は無いと思う。だが、それも話が良く出来ていればだ。最終章に至るまでの物語が、過去の他の作品の真似事ばかり、それも劣化クローン。
前作2199との整合性を無視している点には目をつむっても、2202の中でさえ整合性が取れていない。
上っ面だけオリジナルの名シーンを真似ているが、流れに合っていない入れ方をしているので、観ていて「何故、今それ?」となる。
ストーリーの具体的な部分に触れると、敵に体当たりをしようと単身ヤマトに残った古代。その前に、雪が現れる。だが、彼女は6章で怪我をして数年の記憶を無くしてしまい、恋人古代の事を覚えていないのである。にも関わらず、七章冒頭で古代を庇い重体となる。かなり危険な状態なのだろう、佐渡先生が背を向けて涙を堪える程だ(ここは「さらば」のマネ)。そんな雪をヤマト退艦時に、佐渡先生は連れて行くのを忘れてしまい、雪も重体だったのに、スタスタと歩いている。そして、ヤマトが体当たりのフォローまでしてしまい、記憶を無くしたのに、古代とイチャつき始める。多分、記憶に束縛されない愛と言うのを描きたかったのだろうが、6章で記憶を無くした雪との接触を、メンタルが弱い古代は避けていた。ゆえにこのアホなシーンも記憶を失っても惹かれ合う演出が有れば違ったのだろうな。
で、ヤマトとテレサが敵に体当たりをして数ヶ月後、二人が高次元世界で生きている事が判明。二人を助ける為には、ガミラス戦からの復興を支えた時間断層を暴走してそのエネルギーを使わないと無理となる。それを実現する為に、時間断層を壊す事を「国民投票」で認めて貰おうとして、真田さんの演説が始まる。真田さんの演説、うん、これ自体は良いことを言ってるよ。だけど、ヤマトで国民投票?しかも、前提として地球市民は時間断層の存在を知らないのにだ。
脚本家には自分の中では理解出来ているだろう話を観客に伝える能力が欠如している。