「落ちても救いはある」蜜蜂と遠雷 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
落ちても救いはある
音楽が流れ続ける映画で、音楽に興味のない人には面白くないとは思うが、音楽にまったく興味がない人というのは滅多にいないと思うので、程度の差こそあれ、それなりに多くの人々が楽しめる作品だと思う。
ストーリーと言うべきものは殆どなく、コンテスタントたちの群像劇である。最も重要なシーンは、主人公栄伝亜夜が子供の頃に母親とピアノを引きながら、自然の中にある音楽をピアノを通じて表現できることに気づくところだ。これが蜜蜂のシーンだと思う。次はコンクールを通じて親交が生まれたコンテスタントたちが遠くの遠雷を眺めるシーン。これは見たままの遠雷のシーンである。このふたつのシーンによって観客は、主人公の心に自然と生命の息吹とも言うべきものとの共生感が生まれたことを知る。表現すべきことは既に手に入れた。そして表現するための技術はとっくの昔に身に付けている。あとは心にかかるブレーキを取り去るだけだ。
実は心のブレーキを取り去るのは非常に難しい。それは理性でもあるが、生命の防御本能でもあるからだ。
怒りを覚えたからといって誰彼構わず殴りかかったりしないのは、自分の基本的人権が守られるように他人の人権を尊重するためで、それは理性の働きである。しかしそれだけではなく、日常生活の安定を失うことの恐怖でもある。
恐怖心が少なく、いつでも自在に振る舞える強気な人間が世の中を支配する。それは簡単に言えば暴力による支配だ。暴力的な指導者がエスカレートすれば戦争になる。人間の世の中は理性的ではないのだ。
社会が暴力的だと、恐怖はますます強まり、心のブレーキは強くなっていく。ブレーキが強くなりすぎたら、外に出られなくなる。即ち鬱病だ。
従って我々はブレーキを適度に効かせつつも、ときにはそれを断ち切って自分の心を解き放つ必要がある。そうしなければ前に進めないからだ。
主人公がそうやって一歩を踏み出す再生のストーリーであるが、コンクールに落ちたときには落ちたときの人生があることを作品は同時に描き出す。音楽がすべてだが、コンクールがすべてではないのである。そこに救いがある。
松岡茉優は相当に気合いの入った演技をしていて、自信と不安の間でメトロノームのように振れる気持ちがよく伝わってきた。主役を張るには少し存在感に乏しい女優だが、本作品の演技は一生懸命な、いい演技だったと思う。悲しいよりも幸せな表情が似合う人で、特に月を見て「ペーパームーン」や「月光」を弾くシーンはほのぼのと楽しそうで、心に残るシーンだった。