「残念・・・」蜜蜂と遠雷 にやんころりんさんの映画レビュー(感想・評価)
残念・・・
やっぱり 本を超える事は出来ないな・・・
この映画は 本を読む前に観た方がいい!
本編に出てくる人物たちの描写が映画では弱く かなりの部分が省かれているので
とても中途半端に思えた・・・
恩田さんがべた褒めみたいな批評があったが マジで?と思うよ。
演技がどうのより内容が不自然すぎる!
音楽に力を入れ過ぎたのかね・・・
どこに焦点を合わせているのかがあやふやになってる・・・
主人公はもちろん栄伝亜夜なのだろうが その描写も弱く またその周りを取り巻く亜夜の幼馴染の天才児マサル 亡き世界的ピアニストが唯一教える為に足げく通ったと言う天真爛漫な少年風間塵。苦労人で家庭と仕事を持ちながらコンクールに出た明石。マサルと同じ世界的な音楽学校で学んでいる気の強いチャン。これら個性豊かな人物たちを描き切れていない。それはそれぞれを描くには時間が無いのはわかる。なぜなら音楽描写を主軸に置いたからそれぞれの人物像が弱くなり関係性や繋がり そして葛藤が半端になってしまった!
と感じた。
その一番が 亜夜 マサル 塵 明石達が 砂浜に現れるシーン・・・
それぞれの繋がりの描写が弱いため 映画しか見てないとなぜ海に来たのか? どうして来ることになったのか?が分からず 単に仲良しになった4人(明石はなぜ一緒?)が決戦前に息抜きに来たのか? そんな余裕があるのwと違和感があるんじゃないかな?
逆に音楽を控えめにして人物像を重点に映画化したほうが良かったと思った。
コンクールでの審査員たちの審査の葛藤と審査員とホフマンとの関係
芳ヶ江国際ピアノコンクールの立ち位置を審査員の葛藤に織り交ぜて見てる人に理解してもらうなど
登場人物たちの出会いと葛藤
特に亜夜を主人公にするなら 子供の頃のマサルとの思いでは抜いてはダメでしょwww
だからエレベーターの中でマサルが亜夜に「あやちゃん?」と突然声をかける場面が とても不自然で唐突さがぬぐい切れないw
それにマサルの中での(亜夜)の描写が抜けてるため本を読んでないと
あまりに唐突過ぎて「え!」と思ってしまうw
そんな場面が幾つも出てきて観終わって 違和感しかなかった!
確かに音楽的には有名所の東京フィルハーモニーなどの協力で音的には良いのだろうが
コンサートを観に行ってるんじゃないしねw
題名にもなっている ミツバチの意味する所のギフトである塵!単に塵の父が養蜂家だ!て意味じゃないw
だけどこの映画では それすら見てる人には分からないでしょ!
となると この「蜜蜂と遠雷」と言う題名すらあってるの?
と疑問符だけが残った・・・
ご意見の通りだと思います。
こんな映画にしたのは監督のエゴですね。
原作ありきの、しかも直木賞と本屋大賞のW受賞されてる作品をこんな映画にしたのは侮辱ですよ。
絶賛されてる方の気持ちがわからないし、映画しか見てない方が蜂蜜と遠雷という作品を勘違いしてほしくないです。
小説はあんなにワクワクしたのに、この映画には怒りしか湧きませんでした。
原作を読んでから見た方がいいと書いてる人がいるが その理由が映画を理解するためみたいな事が多いように思うのだが・・・
この映画単体で理解できなければ映画自体は失敗作ではないのだろうか?
映画を観て感動したから原作を読んでみたい!
と思わせてこその映像化ではないのか?
映画の内容の補足の為に理解のために最初に原作を読むことを勧めるなら映画では理解できない内容になってると言う事だ!
特に亜夜とマサルの関係性や世界的ピアニストからの劇薬であるギフト蜜蜂 塵(それは審査員たちと演奏者と塵のピアノを聞いた人達への贈り物)の影響を受け葛藤する亜夜やその周りの人達!それは正に綺麗な花たち(天才たち・・・審査員もかつては神童と言われた天才だし 一般人の様な設定だが紛れもなく明石も天才だ!)の間を飛び回り素敵な蜜(蜜=個性を刺激する)を見つけ出す蜜蜂であり その綺麗な花の実(素質の開花)を成す媒介者でもある塵 亜夜が立ち直るきっかけを作った塵との月光の連弾!最初塵に嫉妬(亜夜との事で)するマサル!亜夜に嫉妬する(マサルの事で)チャン!亜夜・マサル・塵たちの才能に憧れ嫉妬し悩み諦め そこから這い上がる明石!
審査員も最初から塵の才能を認める者もあれば フォフマンに師事した者の塵への嫉妬と拒絶反応!
映像化するなら十分にヒューマンドラマとしての要素があり 重厚な作品に出来たのに 音楽を無理に映像化した感じが否めず その為映画での各人の設定とそれらが織り成す関係性が脆弱になり その補完の為に理解のために原作を最初に読んだ方がいいと言うのでは 映画自体は失敗と言わざるおえないのではないか?
長くなったので こちらに追記!