「無為に過ぎていく時間」あの日々の話 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
無為に過ぎていく時間
登場人物は皆小学生レベルの精神年齢である。自分を中心に世の中が回っている。不勉強だから封建主義のパラダイムに疑いを持たない。しかし現代劇らしくそこにパワハラやセクハラの会話も挿入する。すると簡単に彼らの価値観は崩壊してカオスとなる。もともと価値観など持ち合わせてはいないのだ。
それでも仲間といればそれだけで楽しいと無理矢理に思い込み、歌を歌い悪ふざけをする。現実世界の中の自分のアイデンティティよりも仲間同士の力関係やグループ内での自分の立ち位置、承認欲求、それに欲望の充足が関心の殆どを占める。そんな仲間との時間は何も生み出さないし何も残さない。ただ無為に過ぎていく時間を引き攣った笑顔で見送るだけだ。中にはそのことに気づいている者もいるが、本音よりも空気を優先してしまう。
本作品は若いときにはこういう無為な時間があるのだとだけ表現し、そこから先を観客に委ねているかのようである。映画館では笑いも起きていたが、仲間内の優越感と劣等感が元になった、要するに人を馬鹿にする類の笑いで、当方はまったく笑えなかった。いじめっ子がいじめられている子をバカにして笑ったり、いじめられている子が立場を改善するためにおどけてみせるのと同じで、それを見て笑える大人はいない。
この映画を見て、ある歌を思い出した。1968年にリリースされた「Those were the days」(邦題「悲しき天使」)である。メアリ・ホプキンというイギリスの少女が歌った歌で、日本でも何人かの歌手がカバーしていた。歌詞の中に次の一節がある。
Remember how we laughed away the hours think of all the great things we would do♬
普通に翻訳すれば「自分たちが行なう偉大なことを考えながら、どうやって私達が時間を笑い飛ばしたかを思い出して」となるだろうが、もしかしたら「思い出して、私達が時間をどんなふうに笑い飛ばしてしまったかを。考えてみて、何か偉大なことが出来たかもしれないことを」というふうにも訳せるかもしれない。
青春は模索の時期である。孔子でも30歳になってやっと独立した。人生を20年ずつ4つに分けると朱夏の時期に当たる。白秋の時期から玄冬の時期にかけて何かを成し遂げればいいのかもしれないが、例えば数学者のガロアのように若くして現代物理学にも使われる群論を確立したにもかかわらず20歳で亡くなった人もいる。将棋の藤井聡太七段はまだ16歳だ。
うかうかしていると映画の日々がそのまま数十年も続くかもしれない。現に登場人物のひとりは結婚20年だ。若い頃にはこんな日々があったという振り返りを表現している面もあるが、世界観のないまま流されて生きていく若者の群像を描いているとも言える。
ひとつだけ確かなことは、こういう若者はサッカーにしろオリンピックにしろ、日本人だから日本のチームを応援するのは当然だという考えで、それは大人になっても変わらないだろうし、そして選挙に行って政権与党に投票するだろうということだ。日本の未来は暗そうである。しかし最後に登場する村上虹郎の役に、一筋の光明を見出す。既存の価値観や慣習にとらわれずに自由に生きる若者の姿だ。それがこの映画の救いだと思う。