「アゼルバイジャン」ブラ!ブラ!ブラ! 胸いっぱいの愛を いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
アゼルバイジャン
『旅のおわり世界のはじまり』でもそうだったが、カスピ海周辺の風光明媚な地形は代え難い世界遺産そのものであることを再認識させられる背景で繰広げられる“シンデレラ”の現代版といった作品である。そして最も特徴的なのは台詞が一切無い(指し示す短音のみ)縛りで物語を遂行してゆく演出である。二年前の東京国際映画祭で、日時の都合で鑑賞出来なかった本作がこうして配給が出来た事を関係者に感謝する。台詞がないだけできちんと効果音や劇伴、挿入楽曲は乗せられているので、日本のサイレントムービーとは趣が変わっている。コメディーを前面に出しつつ、ラストは違った展開に移行していくのもよく練られた脚本である。細かい所ではツッコミどころは否めないが、リアリティがベースではなくあくまでも寓話としての濃度を高めたので、現実の旧ソ連邦の社会問題がテーマという押し出しはそれ程鼻につかない。あくまでも“ブラジャー”を通して、理想とする家族を構築したい独身且つ定年が訪れた機関士のプチ冒険譚といった設定である。オチも、ポイントスイッチを手動で切り替える女性鉄道員のブラであったという顛末は、単体では余り重要性はない。探していた宝物がラストでカラスにさらわれるみたいなものだ。あくまでも男には理解出来ない“ブラジャー”の重要性を、機関車に引っかかったブラを持ち主に返し、あわよくば伴侶にしたいという下心からの転がしなのである。
そもそもなんで下着であるブラジャーには細部に施された刺繍も含めて、あれだけのデザイン性に包まれているのだろうか。芸術的な程その上質な飾りに、女性の存在感を圧倒的に担保する説得力なのであろう。そしてそのデザインはブラ単体ではなく、パンツとタッグを組むことでより美しさが補完される。それは正に単体では存在をあやふやにさせる社会性を、上下がトータルとして結びつけられることで補完し合う人間社会を表現しているのである。それは男女の結びつけとは限らず、本作のように違った家族形成も又、一つの解答例だということを示唆する。毎日の仕事だけに従事していた男は気付く。世界はこういう風に動いているのだと。その純真無垢な性格故に数多く傷つき、しかしそれでも偶然に出会った孫と同等な年齢の子供を引き取る事で、自身も又、第二の人生の意義を見出す帰着は、ブレずに筋を通した男の一本気に共感を持たざるを得ない。女性のしぶとさあざとさ、そして男の傲慢さ、そんな裏の社会を散々体験した男のささやかな抵抗でもあるような深層も感じた本作である。