「車内の前後の位置関係が、まったく異なる二人を優しく近づける。」グリーンブック すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
車内の前後の位置関係が、まったく異なる二人を優しく近づける。
〇作品全体
生まれも育ちも、人種も、性的嗜好も、何もかもが異なるトニーとシャーリー。旅の序盤、すでにトニーは妻ドロレス宛の手紙で「シャーリーとはウマが合いそうだ」と綴っている。しかし、黒人に対して差別意識を持つトニーにとって、シャーリーと長時間同じ空間に身を置くというのは、やはり簡単なことではなかったはずだ。
そんな中で、ひとつ印象的なアクセントとなっていたのが、車内での“前後”の位置関係だった。
旅の大半を車内で過ごす二人の会話は、必然的に前席と後部座席という“前後”の構図になる。この位置関係では、肌の色や所作といった“育ち”の違いが、視界に入らないぶん薄れていく。たとえば、膝掛けを上品にかけるシャーリーと、人の分のサンドイッチまで食べてしまうトニーの「育ち方の違い」は、カメラを通せば一目瞭然だが、二人にとってはお互いの視界に入らない。後部座席のシャーリーから見れば、トニーが「不衛生」に食べるフライドチキンの姿も直接目に入ることはない。
視線を合わせないからこそ、真正面で対峙する緊張感が和らぐ。相手の許容できる部分はそのまま受け入れ、許容できない部分については本音を出して衝突することもできる。行く先々で「黒人であること」を突きつけられる世界で生きるシャーリーにとって、その空間は肌の色に囚われず、しかも一人ではないという点で、初めて心を開ける場所になったのではないかと思う。
トニーにとっても、見えているのは前方の景色とバックミラーだけ。話すとき、人種を意識するような視線のぶつかり合いはほとんどない。すぐ頭に血がのぼる性格だが、用心棒としての働きぶりや、家族との関係を見る限り、自分勝手な人物ではないことは明らかだ。
少し主観になるが、映画作品において「嫌々仕事を引き受ける」動機は、ネガティブな事情に基づくことが多い。家庭に問題がある、過去に過ちを犯した、などだ。本作でもトニーが「やりすぎた」ことで仕事を失ったという背景はあるが、最終的に旅に出る決断をしたのは、ドロレスの承諾があったからだ。順調な夫婦仲をより強くする、というポジティブな物語線が存在する点が好ましい。そして、トニーがただの乱暴者ではなく、“家庭に責任を持つ男”であるという描き方にも好感が持てる。
話がやや逸れたが、トニーが「2時と10時でハンドルを握る」と語る姿勢には、責任感と、それを時折裏切るようなユーモアが込められている。この運転席という位置こそが、彼のキャラクターと物語のバランスをとっていたように思う。
そもそも二人が対面で視線を合わせるシーンは、車外でさえ稀だ。レストランではシャーリーが新聞に目を落とし、手紙の書き方を教える場面でも、シャーリーは横を向いているか、トニーの周囲を歩いている。宿泊時の会話も、ベッドに横たわりながらのものだった。
このように“ひとつクッションを置いた”距離感のある会話が積み重なっているからこそ、真正面から視線を合わせて交わす言葉には、大きな意味が宿る。たとえば、石を盗んだトニーをシャーリーが咎めるシーン、あるいは浴場で警察を買収した後の駐車場のやりとりがそれにあたる。心の距離を縮めるときは目線を外して柔らかく、ぶつかり合うときは真正面から――。この映像的な緩急が、二人の関係の構築に欠かせない要素になっていた。
Wikipediaを覗いてみたら、この映画が「白人の救世主」ものの典型だとする意見があった。確かに、その指摘も理解できる。ただ、そう断じきれない感覚もある。なぜなら、二人が車内で“前後”に位置し、肌の色や所作が直接的な意味を持たない空間に身を置いていたからだ。その空間においては、“誰が救うか”ではなく、“どう向き合うか”が主軸となっていた。だからこそ、自分はこの映画にただの感動以上の何か――静かで強い友情の物語として、強く惹かれたのだと思う。
〇その他
・終盤、黒人が集まるレストランでシャーリーがピアノを弾くシーンがすごく良かった。孤独から脱却する一歩、みたいに映るし、今までシャーリーがやってきたことは間違いじゃなかった、といような肯定感もある。