「ユマの大冒険の物語」37セカンズ 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
ユマの大冒険の物語
人間が最も好む異性の匂いは、無臭だそうである。免疫力が強ければ無臭になる。つまり健康ということだ。フェロモンだ何だというのは香水を売りたい商売人の宣伝文句に過ぎず、異性に対して健康に勝る魅力はないのだ。病気の美男美女よりも健康な十人並みのほうがよほどモテるだろう。
自分の遺伝子を残すための相手に優れた遺伝子を選ぶのは人間だけではなく、多くの動物の行動に見られる。そういう動物の生態からして、身体障害者は異性を求める場合に大きな不利を背負っている。もちろん本作品の主人公ユマも例外ではない。そしてユマ自身がそのことを悟っていることは、作中の漫画によって表現される。ユマは自分を客観視できる大人なのだ。
身体障害がある生物は、動物の世界では長く生きていけないだろうが、人間界には人権に関する自由と平等というヒューマニズムがある。日本国憲法第13条にも「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれてある。本来的には国家権力が個人を尊重しなければならないという、権力に対する縛りではあるが、日本国民全員が互いを個人として尊重しなければならないという覚悟も求められている。
憲法の権力に対する縛りはいまや風前の灯となっていて、政権は憲法を無視して個人を蹂躙しようとしているが、少なくともまだ個人は他の個人を尊重する姿勢を持ち続けることができる。聖書に「人を裁くな、自分が裁かれないためである」(マタイによる福音書)と書かれてある。正義の味方になって他人を断罪することは、自分に跳ね返ってくるというわけだ。しかしSNSには正義の味方が溢れていて、弱い人を糾弾する。
それでも世の中には優しい人間が存在する。強い人だ。世間の価値観やパラダイムに流されなければ、自分の価値観だけで生きていける。世間から軽んじられたり、貶められたりしている人にも優しくできる。世間からどう思われようと無頓着な強い人が、弱い人に優しくできるのだ。
本作品で渡辺真起子が演じた娼婦の舞がそういう人間だ。繁華街のオカマたちもそうである。アウトサイダーにはそれなりの強さと優しさがある。そういった他人との関わりの中で、ユマは彼女なりの優しさを体得していく。それは強さを体得することでもある。
本作品は冒険の物語だ。それも大冒険である。ユマは思い切って出掛けた先で素晴らしい人たちに出会い、助けを獲得して冒険に出る。冒険物語の主人公が成長して帰ってくるように、ユマも大きく成長する。人生を肯定し、自分を肯定する。わたしはわたしでよかった。
脳性麻痺の人間がそうやって自分を肯定するまでに、どれだけのつらい思いがあっただろうか。映画は大人になってからのユマの話だが、ここに至るまでの苦労と葛藤は並大抵ではなかっただろう。そこに思いを馳せるとこちらが泣けてくる。絵葉書のシーンや旅先のシーンは回想シーンでもあると思う。
新人で初主演の佳山明の奮闘に、神野三鈴、渡辺真起子、大東駿介などが渾身の名演技で応じる形でリアリティ豊かに物語が膨らむ。それもこれも、作品の世界観にキャストとスタッフの全員が共感していたからだろう。その一体感が作品を通じて伝わってくる。脚本、監督のHIKARIは恐るべき才能の持ち主だ。本当にいい映画だった。