ROMA ローマのレビュー・感想・評価
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不吉な予兆を追いかけて。
気がついたら四回観てしまっていたが、繰り返し観たことでわかったことと、いまだにわからないことがある。
まるでどこかの家の日常を覗き見ているような映画だが、実はものすごく計算されて作られている。顕著なのが「子を失う」という展開を予見させる前振りの数々。例えばクレオが妊娠を雇い主に告げる時、幼いペペが泣いているクレオに気付く。雇い主(ペペの母親)が「クレオはお腹が痛いの」とその場しのぎの嘘をつくと、優しいペペは「痛いの飛んでけ」とクレオ気遣う。そしてクレオに宿った厄介ごと=子供は、死産という形で飛んで行ってしまうのだ。
不吉の予兆は他にもいくつもある。大晦日のパーティーで祝いの盃が割れるのがわかりやすいが、その直前に家政婦仲間が「子取り鬼でもくるっていうの?」と冗談を言う。しかし子取り鬼は来るのだ。クレオの子供を奪いに。本作の脚本は実に隠喩に満ちている。
わからないままのは、幼いペペが何者なのか?という疑問。ペペがたまに口にする「大きかった時の自分」の話は、いちいち予言的なのだ。ペペにはどこか異界と繋がっているような佇まいがある。一体キュアロンの真意はどこにあるのか? 掘れば掘るほど迷い込むのも、本作の魅力だと感じている。
喜びや悲しみを超えて、寄せては返す波のように紡がれゆく記憶たち
映像の深度。ふとそんな言葉が浮かんだ。映画館のスクリーンに比べるとこれっぽっちのサイズでしかないPC画面(NETFLIX)での鑑賞ではあるものの、計算され尽くした構図とカメラの動きが、観る者を深い記憶の潜行へといざなってやまない。しかもその全ての演出がいっさいこれ見よがしではなく、カメラの存在を忘れてしまいそうなほど、ナチュラルに胸に沁み渡っていく。物語そのものはとても小さくて個人的なものだが、そこに映し出される延々と横移動し続ける街並みや、遠く遠くまで開けて見える奥行きなど、このPCの小箱が一つの考え抜かれた視座、あるいは「記憶の覗き穴」でもあるかのようだ。
寄せては返す波のようなオープニングは、やがて訪れる生命の鼓動、陣痛、そして終盤の海辺にもつながる。何気ない喜びや悲しみ、そして歴史が物語る惨劇を乗り越えて、日々が大切に、穏やかに育まれていく様がこの一作に集約されているかのようだ。
アルフォンソ・キュアロン監督の子供時代の追憶
モノクロの画面が美しい映画でした。
物語よりも映像で語る映画。
アート系の映画です。
ファースト・シーンで、
タイルの床に水が流される。
大きなバケツで汲みきれないほどの大量の水。
そこはキュアロン監督が子供の頃を過ごした家の床面。
美しいタイルですが、犬の糞が転がっていて、避けて歩くのは難しそう。
1970年メキシコシティの中産階級居住地区コロニア・ローマの
広大な邸宅の家政婦のクレア。
その雇い主のアントニオとソフィアと4人の子供と祖母の家庭の
1年間が描かれる。
この映画の後にキュアロン監督の制作ドキュメンタリー映画
「ROMA/ローマ完成までの道のり」を観ました。
監督の意気込みが伝わってきました。
商業映画ではない本当に自分が撮りたかった映画を撮れた喜び。
ぼくが本当に創り出した【初作品】なんです。
そう熱く語ります。
監督の過ごした子供時代の思い出。
若い家政婦のクレア。
医師の父親と科学者の母親と祖母。
父親はカナダのケベックへ出張と度々家を留守にします。
夫婦仲はどうも微妙な様子。
一番の印象的なのは家族と家政婦2人が住む【瀟洒な邸宅】
1階から2階は吹き抜けで、居室には仕切りが無い。
1階の車庫。
間口ギリギリにやっとこさで駐車されるバカでかいフォード・ギャラクシー。
そこは飼い犬の遊び場と共有で犬の糞が点々と落ちている。
そして屋上が洗濯干し場。
(中産階級といっても、上流階級のようです)
若い家政婦のクレア。
洗濯・掃除・炊事と忙しく働くクレア。
子供たちがとても懐いていて、クレアを大好きなのが分かる。
クレアの初体験の日のエピソード。
クレアの妊娠。
不実な恋人フェルミン。
(妊娠を告げると映画館から逃げ出します)
遠方の仕事場まで訪ねるクレアに、
「2度と来るな!!本当に俺の子か?」
とひどい仕打ち。
そして暴動の日に破水。
(それは不実なフェルミンが抗議団体の民衆に銃を突きつけた直後)
そして出産。
ストーリーより映像。
子供の時の記憶の心象風景がまず初めにあって、
台詞はその場で監督が指示していましたし、
その場面で自然に生まれる言葉が台詞でした。
クレアを演じたヤリッツア・アパリシオはオーディションで選ばれた
先住民族の女性で、ミシュテカ語が話せます。
もう1人の家政婦のアデラとの秘密の会話はミシュテカ語。
アカデミー賞の監督賞・撮影賞・外国語映画賞を受賞。
Netflix作品は監督の撮りたい作品を実現するのに力を貸す。
そう感じます。
2のシーンが心に残りました。
《クレアの出産》
クレアが産気づき破水して出産するシーン。
実は演じているヤリッツアに、秘密にされていた事があり、
役に没入したヤリッツアは驚きで感極まって泣き出します。
このシーンは演技ではない。
そこでクレアになりきり、彼女はクレアとして生きていた。
(満足の出来に感激症のキャメロン監督は何度も何度もヤリッツアを抱きしめる)
《ラストのビーチのシーン》
波打ち際で遊んでいた子供2人が大きな波にさらわれそうになる。
泳げないクレアが必死になって波に逆らって沖の方へ進む。
特別なCGやVFXや特撮はないと思います。
ごく自然な緊迫感。スリル。
見事なシーンです。
ラスト。
クレアと一家が帰宅する。
アントニオとソフィアは離婚を前提に別居が決まり、
アントニオが荷物を運び去って、ガラーンとした一階。
クレアはアデルに、
“いっぱい話があるの“
と告げる。
きっとミシュテカ語のお喋りは盛り上がるのでしょう。
今も交流があると言うクレアのモデルの家政婦さん、
暴動も地震も大火事もあるけれど、
何処か郷愁に満ちたキュアロン監督の優しい眼差しを感じます。
生まれてきてほしくなかったの。
アンクル・トムの小屋だ。
メキシコの歴史は余り知らないので、イデオロギーの事は省いて鑑賞した。
『生まれてきてほしくなかったの。』
カソリックのメキシコでは、堕胎は出来ないから、仕方ないだろう。余りカットが無く長回しを多様している。その
長回しが飽きずに見れた。
男目線なのだろうが、傑作だと思う。
ゼログラビティの監督なの!?
最低な男たち…
家族をおいて、愛人と暮らす雇い主の夫といい、クレアから逃げた男といい、クズ男だなと。しかも日本の武道らしきことをやってるが、やめてくれ。死産のシーンはリアルで何とも哀しい。モノクロの映像美とともに、長回しの撮影はある家族の日常を描いており、いたってナチュラル。しかし、期待していただけに平凡に感じた。ラストは少し光が見えたかな。
2極化する評価軸。配信の意味
自分なりに、この映画の「あり方」について考えてみた。
アカデミー賞をめぐるスピルバーグのコメントは「配信の映画はオスカーではなくエミーを取るべき」というようなものだった。そのことが気になって、見てみたい。と強く思うようになった。この手の映画は、ほとんど見ない。女優さんが美人じゃないし、お話も平凡な日常風景、テーマがはっきりしない。差別?恋愛?幸福?なんかぼんやりしている。とにかく面白くなさそうだ。なんでこんな映画が評価されるのだろう。
Netflixで配信されており、アカデミー賞発表のタイミングでは契約しようか、どうしようか本当に迷った。で、いつの間にか限定で劇場公開されていたので、しれっと見に行ってきた。人に話すとしたら、
「見てよかった。でも、面白くないよ」
「シロクロなんだけど、映像がキレイで奥行きがすごい」
「音がリアルすぎて、子供が外で遊んでいるのか、映画の中なのか区別がつかない」
「もし配信で見たとしたら、たぶん途中で見るのをやめると思う」
というようなものになる。
実際、レビューのいくつかを読んでも、「クソつまらない!」「いやいや、大傑作!」という評価の2極化が目立つ。でも、そんなに極端に構えてみる必要のない、叙事詩的映画で、いくつかの奇跡的な偶然がフィルムに収められている。もちろん、その奇跡は意図的に起きたものであって、監督であるキュアロンの執念だ。
たとえば子供たちを救いに海に入っていくクレオ(子供たちが本当に溺れているのだとしたら大変だ)
せまい車庫に大きな車を無理やりつっこむ。そのあいだ、クレオは黙って犬が逃げ出さないよう捕まえている。
出産に備えてベビーベッドを買いに行くクレオ。売り場で値引きの相談をしている時に学生のデモ隊と、地元警察との衝突が起き、銃声が鳴り響く。撃たれて逃げてきた市民を追って来た武装した学生は、クレオの元カレでおなかの赤ちゃんの父親である。なんとこの男、クレオに銃口を向け、彼女に気づき走り去っていく。
中庭の敷石に犬のふんがあり、きれいに磨いていると、水たまりに偶然飛行機が映り込む。(それにしてもひっきりなしに飛んでいる飛行機だ)
映像は基本的に長回しでで撮影され、失敗の許されない段取りを入念に打ち合わせて準備したと思われ、極度の緊張下に俳優たちは置かれたことになる。その緊張がたまらなくいい。しかし、主演のヤリッツア・アパリシオはどこまでも自然体で、緊張のかけらも感じさせない。悪く言えば、なにを考えているのか顔に一切出ない。その彼女から発せられる、衝撃の告白!「生まれて欲しくなかった」
300人のエキストラを複雑に動かして高い視点からひとつなぎに見下ろす。
日常の光景には、つねに子供やイヌが映り込んでいる。
海で遊んでいるシーンには太陽と、人間をひと呑みにする大波、波の中から頭を出す溺れている子供。(それもふたり!)
これらのシーンは、ちょっとしたミスで台無しになる要素があり過ぎる。それを長回しで撮ってしまうのだから、映像の迫力はかなりのものがある。
少なくとも、その時代に生きた一人の女性の人生を感じさせるのに十分な物語がこの映画に込められている。「面白くはない」「興味深い」これで十分ではないだろうか。
2019.3.18
期待外れ
アカデミー賞を受賞や作品賞候補という触れ込みだったので、結構楽しみに観たのですが。
え?ホントにアカデミー賞候補だったの?? 嘘でしょ?
結構駄作でも楽しめる方だ思っていたのですが、いまいち感性が合わなかったようで。
途中まで超つまらなくても我慢して観ていて、家政婦クレオの恋人が登場した辺りからは、やっと面白くなる!?と期待したのに、火事の中オッサンが歌を歌うシーンでドン引きして鑑賞を止めようかと思いました。ゲージツ作品の映画ではあれは当たり前なんですか??あれは酔っ払いなんですかなんなんですか?おかしいでしょ。あんなことしてたら燃えて死にますよ。新年のお酒が割れるシーンも、まんますぎません?お腹の子、亡くなるフラグ立った、と、バレバレ。
出産、結局死産だった訳ですが、出産経験も、流産経験もある身としては、女優さんの感情表現に若干物足りなさが。歓迎されない子とは言え、10ヶ月近くお腹で育てていた訳で(胎動があると、生きている実感があるので)、もっとうわーっと、溢れるものがあるはず。もっとボロボログチャグチャでないと、物足りない、違和感があるのです。
よかった点は、雇用主側と雇われる側が、あくまで対等で、温かい関係であったことですね。雇用主の奥様が、一番等身大な感じでした。妊娠したクレオを病院に連れて行くなんて、懐大きい!夫の不倫の事で、ついクレオに八つ当たりしてしまう辺りも、良く分かる。最後はポジティブな終わり方で、まあよかったかと。一応最後まで観れました。
美しく悲しい
淡々としているけれど、最後まで飽きさせませんでした。
南米に住んでいたことがあるので、コロンブス上陸以来今だに続く、先住民とヨーロッパ系移民との階級差、先住民の貧しくて厳しい暮らしぶりや、男性が女性をないがしろにするマチスタぶりに、ああそうだったなと思い出し胸が痛みました。差別、暴力、貧困は当時から今も変わっていないと思います。
ラストで、クレオが「子どもを産みたくなかった」と吐露するシーンは、他のレビューの方々の解釈とは違って、「子どもを産みたくないという気持ちが死産を招いてしまった。ごめんねごめんね」という自分の赤ちゃんへの懺悔の気持ちではなかったかと私は受け止めました。
先住民であり女性であるという二重苦を生きるのは本当に過酷なことだなと同じ女性として胸を馳せました。
命あってこそ
1970年から1971年のメキシコの一家と家政婦の激動。
家政婦のクレオが主人公なのだが、クレオが妊娠に気付き出産するまでの間、一度も家に戻らぬ一家の父親。
父親は医者、母親は元生理学者の家庭で子供4人、家政婦は2人。物にも恵まれ側から見れば何不自由なく見えるが、母親の心は家庭を顧みない夫に波打ち、取り戻そうと最初は思うが、後にあてにせず生きる事を決め、乗り越え強くなる。
一方クレオも、休みの日は同僚とダブルデートに行かれたりと、出身は貧しい村でも、仕事に就き住み込みでそこそこ恵まれた暮らしをしているが、雇用主の家のような豊かさとは産まれたときから立場が違うし、妊娠までしてしまい、お腹の子の父親フェルミンは妊娠を知るや姿を消し、晴れない1年が続く。
どんな経済的背景でも、仕事も持っていても、女性の扱われ方の地位が低い。
年が明けて1971年。飲み物の器は割れるわ、山火事は起こるわ、幸先の悪い年明けは予想的中。
スラム街出身のフェルミンのように、貧しい子供達は大きくなると怒りの矛先が政府となり、有り余ったエネルギーや若さ、不満をデモにぶつけていく。フェルミンも、武術に出会ったお陰で不良になりきらずにいたが、政治不安の渦に簡単に扇動されてしまった。
クレオは暴動する学生達が乱射する中、そこに混ざっていたフェルミンにたまたま再会するが、彼はクレオに銃を向ける。ショックもあったのか破水するも、暴動のせいで病院へ駆け込むのが遅れ、死産。
蒸発した父親の子に嬉しさを感じられぬままどんどんお腹は大きくなるが、望んでいなかった妊娠。それでも10ヶ月お腹にいた子を失った虚しさで抜け殻のようになっているが、一家の母親の計らいもあり子供達も連れみんなで海に旅行へ。
打ち寄せる波に溺れた子供達2人を泳げないのに助け、みんなで死にかけて、生きている事を実感する。
夫を失っても、父親を失っても、子供を失っても、絶望的状況でも、命は助け合って続いていく。そして、すぐそこに死はある。
淡々とした中に、大げさでない見せ方で、命あってこそなんだという事を教えてくれる作品。
家族の淀みを現すかのような、犬の糞の数。
それを掃除するのがクレオの仕事であり、家族の淀みを受け止めて清めているのもクレオ。母親の八つ当たりもその理由を黙って理解しながら、余計な事を言わず受け止める。
小さな子ほど親の気持ちに敏感で、最初から不和で何かつまんないなと抱えている節があるが、母親の気持ちを汲んだ行動をしていたりする。それでも、クレオには皆甘えんぼモード炸裂。家政婦さんって、子供にとってはちょっとした駆け込み寺、避難所だったりする。
階級社会では上から見られがちだが、家族を助け大きく影響する家政婦さんにスポットが当たっていて、彼女も1人の人間であり、家族の一員なんだと示しているところが良かった。
車庫に車が入る様子が、家族の変化をあらわしている。最初は、ぶつけるのはミラーだけで父親の目線が外を向いた暗示のようだが車体はすっぽりと収まる。父親が出ていくときは車は車庫の外。途中車を修理して気を取り直しクリスマス休暇を過ごしに行くが、その後も母親が駐車すると常にボコボコにぶつけ壊れゆく車と家族。最後は古い車を処分し、父親抜きで団結する一家のように、コンパクトな新車へ。家には、父親が本棚という枠を持ち去り、「理想の家族」という枠が取り払われても残った、中身の部分の本と母親と子供達。
家の中のカメラワークも独特で、徐々に間取りが見えてきて、最後に家全体がわかる構図。
車庫入れが象徴する家族の崩壊
最初の掃除の水が最後の海の波のシーンにリンクしているよう。こどもふたりが波にのみこまれそうになるラストだが、夫の浮気によって家庭が崩壊していく、プチブルジョワの家庭の儚さなど、様々な波にのみこまれる家庭を暗示しているかのように感じる。
車を門の中に入れる車庫入れの場面が何度も描かれた
。夫アントニオは大きな傷をつけることはないが、車庫入れに手こずるし、犬のウンチを踏む。妻ソフィアに関しては、ガンガン車をぶつけ、車を傷だらけにする。中産階級には少し背伸びをしたような、とても大きく、とても高級な車。その車がどんどん傷だらけになっていく様は、身の丈以上のモノを使いこなせない印象を与えたし、家族の傷を可視化しているようだった。妻ソフィアが新しいコンパクトな車を買って帰ってきた時の車庫入れときたら、なんとスムーズなことか。車は移動するためのものであるし、新しい車は再出発にふさわしいものだろうと思った。
いつでも女は独りで闘う
クレオが子どもたちの一人ソフィーに子守歌を歌ってねかしつける。
ソフィーは寝しなに「だいすきだよ」と囁く。
この台詞は、映画の終盤の砂浜の場面でも繰り返されるのだが、その重みは変わっているようで全く違わない質感を伴って響いた。
そして、そのきっかけとなるクレオの独白。
作中、ずっと溜め込んでいたのはこの思いだったのだな、と切なくなった。
子どもは、いつも危険と隣り合わせで、いつ天の迎えが来てもおかしくない危うさを孕んでいる存在だ。
作中でも、そのようなハラハラする場面は幾度となくおとずれる。
兄弟げんか、外出先での先走り、そしてクライマックスの砂浜での遊泳など、映画であるが故になにかあるのではないか、という不安が、胃の下のギュッと締めつけながらの鑑賞であった。
恐らくこの不安は、子どもの親だった経験がないと、あるいはかなり継続的に子どもを世話したことのある経験がないと感じないたぐいのものではないだろうか。
そして、親や庇護者は、いつでも自分の無力さをうしろめたく感じ、子どもを産み、育てる人間としての資質を自問し、罪悪感に嘖まれる。
虐待やネグレクトの経験がある親だってそういう瞬間はあるはずだ(と信じたい)。
子どもを産み育てることが、こんなに不安で後ろめたい思いをする時代は、いまだけではない。
その一点において、この作品は、単なるノスタルジーに浸るためだけではない、現代を描く映画だ。
いつの時代でもこの不安や後ろめたさに、女性は向き合い、周囲の人間に囲まれてはいながらも、結局は独りで闘ってきた。
四人の子どもたちの母であるソフィアも、同じ思いを初めてここで分かち合えたからこそ、クレオを抱きしめた。
終盤、砂浜で抱きしめ合う場面は、そんな女達が共に守ってきた子どもたちと共に、その哀しみを初めて分かち合う瞬間だったのだと思う。
誰か劇場の外で人が騒いでいるのではないかと錯覚するような音響の緻密さと、モノクロームの画面の深みには驚かされた。
どなたかもレビューで書いていたが、これは本当に劇場で観るための映画だ。スピルバーグが、こんなにも映画的なnetflix作品を排斥しようとしたのはなぜなのだろう。その本意を知りたくなった。
☆☆☆☆ 掃除の時の水。雹。雨。水溜りの泥水。海水。 全ては水によ...
☆☆☆☆
掃除の時の水。雹。雨。水溜りの泥水。海水。
全ては水によって洗い流される。
メキシコ発のネオリアリズモ。
以下、個人的な意見ですので、かなりの部分で勘違いなレビューになっていますので。ここは1つ寛大な心でお願いいたします(_ _)
ファーストシーン。
この作品の主人公にあたる家政婦クレアは、雇用主の家の駐車スペースを洗っている。
飼われている犬は絶えずこのスペースで糞をする為に、清掃は欠かせない。
この場面で、彼女が撒く水はまるで鏡の様に天を映す。
カメラは下を向いているのだが、自然と天を見上げるが如くに!
何故かと言うと。この家がかなり裕福な為に、※ 1 このスペースは大理石で(おそらく)ツルツルだからだろう。
1971年のメキシコ。メキシコオリンピックから既に3年が過ぎた時代。
知識が無いので、当時のメキシコ事情は分からない。だが、どうやら大きな学生運動らしき事件が起こる等。この国では大きな社会変革が起こった時代とゆうのは、観ていても分かる。
その一因として、富裕層と貧困地域との格差が有ったのか? それは勿論、此方の知識が足りない為に分からないのだが…。
それでも、牧場へ旅行に行くと、富裕層らしき人達が射撃を楽しむ一方での、それに使えていると思える貧困層との違い。
栄えている都市部が有る反面で。彼女が男を探しに行く地域での社会インフラの遅れは、やはり対比させている様に見える…と思ってしまう。
但しそれらの部分は、物語の背景にしか過ぎないのかも知れない。映画が関心を示すのは、あくまでも家政婦のクレアに起こる様々な出来事なのだ。
ネオリアリズモは映画の歴史に於ける一大変化をもたらした。しかし、社会が繁栄するとそれを伝える事が難しくなって来る。
そんな中で、エルマンノ・オルミは『木靴の樹』とゆう名作を産む。
特に何も起こらない日常、それを淡々と写実するだけの3時間。しかし、そんな何も起こらない日常にこそ大きなドラマが『木靴の樹』には隠されていた。
子供を学校に行かせるかどうかで揉め。
娘に恋人が出来た様だと心配する。
人よりも数日だけ早くトマトが熟しては喜び。
特別な日には豚を解体するなど、3軒の家族が寄り添って生活する。
だが、そんな何も無い地域でも確実に戦争の気配は近付いていた。
『ROMA』本編でも上映が始まると、特に何も起こらない。ひたすらクレアを中心とした軸の中で、淡々と日々の暮らしが続いて行く。
そんな内容に、何処となく『木靴の樹』を思い浮かべていたところで、映画は突如としてクレアに大きなドラマが起こる。だが、まるでクレアは自分の運命を飲み込んでしまったのか?やはりこの後も淡々とした日々の暮らしが積み重なって描かれて行く。
だが…!
映画の中盤でこんな台詞が有った。
「山は低くても緑は繁る」
クレアは聖なる心を持つ女性だった。
犬の糞を始末しろと言われれば嫌な顔をせずにこなし。指輪には憧れるが、自分の指にはめる事などせず。バラバラになりそうな出来事が起こったこの家族に静かに寄り添う。
クライマックスと言える海岸の場面。
帰宅した子供達は笑い話の様に、その時の出来事を語る。大事に至らなかったからこそ、笑い話として話せる幸せ。おそらく、そんな話はいつの日にか日々の暮らしの中で直ぐに忘れ去ってしまうに違いない。
だが、月日が経てば特別に大した事では無かったのかも知れないが。間違いなく《アレ》は小さな奇跡に違いなかったのじゃないか?…と、ラストシーンのカメラは雄弁に語っていたのかも知れない。
ファーストシーンと違い、ラストシーンでのカメラは直接天へと向けられている。
エンドクレジットが終わり。映画は完全に終わろうとしているその刹那。微かに聴こえる鐘の音が3回囁く様に聴こえて来る。
「神様!あの奇跡は、あなたが聖なるクレアに形を変えて助けてくれたのではありませんか!」
※ 1 どうやら石畳が正解らしい。そして監督の自伝的作品であるのを鑑賞後、数時間経って知る。
また、帰宅中からこのレビューを書き始めたのだが。ラストシーンの意味を考えるにつれて、鑑賞中よりも時間が経ってからの方が数倍もの感慨に溢れて来る。余韻の深みが半端ない。
尤も、このレビュー自体はちょっと怪しいのだけれども(u_u)
2019年3月9日 イオンシネマ板橋/スクリーン5
令和に劇場で初です。
初令和映画は、ROMAにしました。
なんちゃない、あるメキシコの中流家庭での
出来事。時代は、1970年の政治的混乱の時。
その家庭の出来事や家政婦さんの体験を
淡々とモノクロの美しい映像で見せてくれる。
日本の昔のモノクロ映画の感触
懐かしい感じの映画で少し切なく少し前向きになれた。地震、火事、デモと殺人、離婚、望まぬ妊娠と死産、溺れそうになる子ども。大変なことが沢山起こる一方で台詞は必要最低限。途中で眠くなったりもした。何となく知っているこの感じ、と思い、日本の昔の白黒映画を思い出しました。
家政婦を主役に据えた家族映画
筒井康隆の七瀬シリーズは超能力をもつ女性が家政婦になり家族の秘密を知る物語だった。最近では山田洋次監督の「小さいおうち」もブルジョワ家庭に住み着いて家庭内事情に関わらずにいられない家政婦の物語。この「ROMA」もやはり似ている。しかしほんのすこし趣が違う。ほぼちょい役のふたりの男、子供たちの父で医師のアントニオ、武道をやっている謎の男フェルミンが2人の女性ソフィアとクレアを同時期に不幸に陥れる。しかし彼女たちは淡々と運命を受け入れ、潔く生きて行く。
家政婦も不幸になり、雇い主も不幸になるという別々の不幸が重なるところにこの映画の説得力があるような気もする。アントニオとフェルミンは、男としての責任を放棄しただめな男たちではあるが、犯罪者というわけではない。
1970-1971の一年間、夫の不在、自動車、犬、銃、メキシコの裕福な農家、火事、地震、子供たち、女性たち、映画、テレビ、電話、音楽、手紙、恋と妊娠、出産、死産、若者たちの暴動、いろいろなものがモノクロで緩やかに詰まっている。
万引き家族でも海岸へ行き、海水浴をしたが、こちらでも海水浴はクライマックスにもってきている。
非常に地味な脚本で、映像演出もモノクロで長回しと引きの絵が多いせいか地味な印象だ。
しかし父親のいた時と居なくなったときを描いており、それが物悲しさを醸し出している。
成瀬っぽい
この作品を、小津安二郎の作品のようだと論じる向きが多いが、キュアロンの最新作はむしろ成瀬巳喜男の映画との共通点が多い。
まず、家屋の間取りや、そこでの生活の様子が良く分かる屋内のショットが魅力的である。
そして、登場する男たちがどうしようもない奴であるということと、カネに対して合理的な女たちが出てくるところも成瀬の映画を思わせる。(「お得意様割引」!)
成瀬が主に高峰秀子を主演に据えた作品群には、時代の変わり目に生きる女性の、強かさと哀しさが映し出されていた。
この「ローマ」もまさに1970~71年という、オリンピックを終えて経済成長が限界に差し掛かったメキシコ社会の変革の中に生きる、二人の女性の哀しい試練と、それを乗り越える強さを描いている。
しかし、小津らしきものがこの作品に全く無いなどと考えているわけではない。
終盤の海辺での、「赤ちゃんに生まれて欲しくはなかった」という主人公クレオの告白は、小津の「東京物語」における「わたし、ずるいんです。」という原節子の台詞に匹敵するほど衝撃的だと思った。
これはメキシコ人の大半がカトリック教徒であることを考えると、中絶という選択肢が最初からなかったクレオの抱えた絶望と不安、そしてそこから解放された安堵の大きさを伴った言葉だととらえることができる。
最後の画面には子供時代に世話になった家政婦への献辞が捧げられているが、この家政婦や母親への監督の眼差しは決して彼女たちに同情的なだけでない。
特に母親に対してはときに厳しい視線を送っている。
酔って車を運転して帰宅したり、家政婦に八つ当たりをしたり、生活の細かい部分でだらしがなかったりする。
夫の不満は「空の容器ばかり入った冷蔵庫」と「いつも犬の糞を踏んでしまう(ほど糞がたくさん落ちている)エントランス」である。
特に前者は、私自身も同じことを家人に文句を言ったことが何度かあるだけに、そして映画でも我が家においても、言われたほうは何のことでそんなに相手が怒っているのか、正直なところ分かってはいなくて、夫婦関係の終焉に向かうのだから、ここは苦笑いするしかあるまい。
退屈とも思える作品なのに見入ってしまう。
万引き家族と一緒にノミネートされて受賞した作品。
1970年、メキシコの中産階級のよくある家庭とそこで住み込みで働く家政婦の話。家政婦のクレオの目線で描かれる。
父親が不倫して出て行ってしまう、家政婦のクレオが妊娠するも父親はクズで知らんぷり。義母・母・家政婦の女子たちが立場変われども1つ屋根の下で力強く生きていく様子を日常を通して間接的に伝えている。
長回しのカットと時々出てくる飛行機、犬の糞を掃除したり海で溺れそうになる水、が象徴的だったが見ながら何を意味しているのかまでは見抜けなかった。
たまに飛行機が飛んでるなー、これ撮影の時に写り込んだの?くらいにしか思わなかったが、複数回出てくるなら何かの象徴だろうという想像まではできた。
いくつか出てきた象徴を想像しながら作品を振り返ると2倍3倍と味が出てきそう。白黒もすべてを出すのではなく、色を想像させながらスリーリーの鮮明さも少し落としているのも、これまたスルメのように味が出てくる。
ツッコミどころや疑問点
●タイトル→メキシコでの話なのにローマ!?ネタバレ解説でメキシカーナ近郊の地域名だって。
●全裸でフェルミンが武道している姿→監督の強い思いだろうけど、ホーケーって(笑)
人生で 1、2を争うほど退屈な映画
ここのレビューの評価が高かったので観に行ったが、『猿の惑星』以来、久々に大ハズレを引いた。あまりにも平凡で退屈な展開に、ここで高評価をつけた人間にクレームを入れたい気分にすらなった。
ストーリーにまるで抑揚がなく、盛り上がる場面といえば、家政婦の子供が死産する場面と雇い主の子供が旅行中、海で溺れかける場面くらい。ここから面白い展開になりそう、という期待をことごとく裏切り、何事もなく漫然と時間だけが過ぎていく。
上映中、何度も溜息と眠気と帰りたい衝動が沸いたが、『いつか盛り上がる場面があるだろう』と期待して見続けたが、結局たいして盛り上がる場面もなく、最後の最後で観客を驚かせるどんでん返しでもあるのかと思いきや、なんにもないままエンドロール突入。
基本的な話としては、冴えない家政婦とその家政婦を妊娠させて逃げた最低男の話。冴えない雇い主の妻とその妻を捨てた最低な旦那の話。雇い主の家庭のごくごく平凡な日常生活を描いた話。
確かに音響は繊細で素晴らしいし、高画質のモノクロ映画の新鮮さはあったが、映像と音響以外に見るべきものはなにひとつとしてない。間違っても人には勧められない映画。
映画館で観るべし。
とても素晴らしい作品ですが、自宅で観るとなるとたぶん飽きます。わたしは絶対飽きて途中で脱落したはず。
なので、映画館へ行きましょう。
劇伴がなく、鳥の声とかタイルを洗うブラシの音とか、遠くで聞こえるモブの喧騒とか波の音とか、音がめちゃくちゃ繊細で、完全防音の部屋とかない限り、自分ちの窓の外の音に紛れて魅力半減必至でしょう。
Netflixは今は未加入ですがAmazon primeで海外ドラマをiPhoneで見てる身としましては、一般的なご家庭のインフラでは太刀打ちできまいと思います。
冒頭でクレアはタイルを水洗いしています。タイルを擦る音と水音、やがて現れる水たまりに空が写って、水たまりの空を飛行機が飛んでいきます。
生活音と白黒のみの世界でこんな凝ったことを!と、キュンとしまして、夢中になりました。
割と難しいし、わたしは(無知なので)ROAMがイタリアのローマのことだと思ったまま見終わりました。
メキシコシティにもなんとかローマって地域があって、タイトルはそこから取ってるって、後で知って、先にゆうといて!と思いました。
なのでネットでいい解説も色々みられるので、予習してもいいと思います。
クレオの武術オタの彼氏(未満)のアイツ、いきなりマッパで披露する演舞にビックリしたのと、映画館でクレオから妊娠を聞かされてトイレ行くくだり、絶対消えるよなーって思ってたら期待通り消えてくれるゲスでしたね。
何あれ?ほんでクレオが道場とやらに会いに行ったら恫喝してさぁ。何あれ?
死ねばいいのに!と思いました。
そして、アントニオ医師も死ねばいいのに!と思いました。
アントニオの妻がキツイ人で、クレオたちにも結構無体なことをゆうてましたが、夫がアレではね。
ちょっと同情なのでした。
クレオは妊娠しますが死産してしまいます。
そして、生まれてこないでって思ってたら死んでしまった、と、悔いを叫びました。
クレオの立場で、子を産むのが怖いって思うのは、仕方がない。誰だって思う。責めなくていいんだよ。
あなたに選べる道はなかった。
セックスしたこともわるいことじゃない。
どうか責めずに、できることをした自分をいたわってあげてほしい。
そう思いました。
彼氏未満のあいつは、なんかテロリスト?的な感じでした。
クレオが家具屋で暴動に巻き込まれた折、なんと彼氏未満のあいつが押し入ってきて、クレオと雇い主のおばあちゃんに銃を突きつけるところ、すっごくびっくりしました。
そしてクレオの破水へと繋がるのですが、中々にドラマチックでした。
スピルバーグ監督がアカデミー賞から動画配信サービス作品を除外すべきみたいな発言をしたことが話題になっていました。
カンヌ映画祭も数年前に動画配信サービスの作品を締め出しました。
動画配信サービスに映画館や映画産業が潰されちゃうという懸念が、そうさせたのだろうとは思うのですが、未知の脅威を排除するって、あからさまな差別じゃないですか。
多少は映画館も減るかもしれませんが、それは仕方がないことだと思います。人材は動画配信サービスの方でうけとめられるでしょ?動画配信サービス、いいですもん。便利ですもん。でも、映画館で見ないと面白くない作品も多いから、共存できると思いますよ。ROMAがまさにそういう作品ですもん。こんなん自宅のしょぼい設備でみても面白くないもの。
排除せずに共存できる道を探してほしいと思います。
(ネトフリのオリジナル映画は特にもっと映画館でやってほしいです)
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