ROMA ローマのレビュー・感想・評価
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車庫入れが象徴する家族の崩壊
最初の掃除の水が最後の海の波のシーンにリンクしているよう。こどもふたりが波にのみこまれそうになるラストだが、夫の浮気によって家庭が崩壊していく、プチブルジョワの家庭の儚さなど、様々な波にのみこまれる家庭を暗示しているかのように感じる。
車を門の中に入れる車庫入れの場面が何度も描かれた
。夫アントニオは大きな傷をつけることはないが、車庫入れに手こずるし、犬のウンチを踏む。妻ソフィアに関しては、ガンガン車をぶつけ、車を傷だらけにする。中産階級には少し背伸びをしたような、とても大きく、とても高級な車。その車がどんどん傷だらけになっていく様は、身の丈以上のモノを使いこなせない印象を与えたし、家族の傷を可視化しているようだった。妻ソフィアが新しいコンパクトな車を買って帰ってきた時の車庫入れときたら、なんとスムーズなことか。車は移動するためのものであるし、新しい車は再出発にふさわしいものだろうと思った。
モノクロの方が心にしみこむ映画
最初の映像は雨のリズムで物語の始まる。家政婦のクレアから見た上流階級の物語。妊娠したクレアを見捨てる男・4人も子供がいるのに愛人と逃げたご主人。男のだらしなさ感じます。その中で強い母と強いクレア。クレアが死産したシーンとおぼれそうな子供たちを助けるシーンは衝撃的でした。海辺のシーンは万引き家族でもありましたね。モノクロのクレアの顔が印象的でした。
美しいモノクロ映像
まず感じるのが、モノクロ映像の美しさと、構図も含めたカメラワークの素晴らしさ。
オープニングからそうだが、とにかく1カットが長い、所謂長回しのシーンが多い。
これを丁寧と感じるか、冗長に感じるは観る側次第だろう。
加えて効果的な音響には、ドキュメンタリー映画のようなリアルさがあって、まるで作り物のような感じを受けない。
ただ、内容的には、住み込みの家政婦の日常を、淡々と映し出しているにすぎず、いくつかのエピソードはあるが、あまりメリハリがなく、今ひとつ物足りなさを感じる。
それでも、いろいろあったが、最後は皆んなで明日に向かって、力強く生きて行こうみたいな感じのラストは、気持ちの良い終わり方だ。
芸術作品なのかも知れないが、万人受けする作品ではないと思うので、人には勧めにくい作品かな。
いつでも女は独りで闘う
クレオが子どもたちの一人ソフィーに子守歌を歌ってねかしつける。
ソフィーは寝しなに「だいすきだよ」と囁く。
この台詞は、映画の終盤の砂浜の場面でも繰り返されるのだが、その重みは変わっているようで全く違わない質感を伴って響いた。
そして、そのきっかけとなるクレオの独白。
作中、ずっと溜め込んでいたのはこの思いだったのだな、と切なくなった。
子どもは、いつも危険と隣り合わせで、いつ天の迎えが来てもおかしくない危うさを孕んでいる存在だ。
作中でも、そのようなハラハラする場面は幾度となくおとずれる。
兄弟げんか、外出先での先走り、そしてクライマックスの砂浜での遊泳など、映画であるが故になにかあるのではないか、という不安が、胃の下のギュッと締めつけながらの鑑賞であった。
恐らくこの不安は、子どもの親だった経験がないと、あるいはかなり継続的に子どもを世話したことのある経験がないと感じないたぐいのものではないだろうか。
そして、親や庇護者は、いつでも自分の無力さをうしろめたく感じ、子どもを産み、育てる人間としての資質を自問し、罪悪感に嘖まれる。
虐待やネグレクトの経験がある親だってそういう瞬間はあるはずだ(と信じたい)。
子どもを産み育てることが、こんなに不安で後ろめたい思いをする時代は、いまだけではない。
その一点において、この作品は、単なるノスタルジーに浸るためだけではない、現代を描く映画だ。
いつの時代でもこの不安や後ろめたさに、女性は向き合い、周囲の人間に囲まれてはいながらも、結局は独りで闘ってきた。
四人の子どもたちの母であるソフィアも、同じ思いを初めてここで分かち合えたからこそ、クレオを抱きしめた。
終盤、砂浜で抱きしめ合う場面は、そんな女達が共に守ってきた子どもたちと共に、その哀しみを初めて分かち合う瞬間だったのだと思う。
誰か劇場の外で人が騒いでいるのではないかと錯覚するような音響の緻密さと、モノクロームの画面の深みには驚かされた。
どなたかもレビューで書いていたが、これは本当に劇場で観るための映画だ。スピルバーグが、こんなにも映画的なnetflix作品を排斥しようとしたのはなぜなのだろう。その本意を知りたくなった。
言葉がない
極めてプライベートな幼少の記憶を銀幕に焼き付けた私小説的叙情詩。
モノクロだからこそ記憶に残る、冒頭のタイルの形や、エンディングの屋根の向こうに飛び立つ飛行機の角度。
『東京物語』の汽車の煙と倉の屋根が記憶で重なる。
理屈では説明できない視覚的心地よさが全編に溢れる。
2ヶ月経ってもレビューが上手くまとまらない。
もう一度、ドルビーシネマで鑑賞したいと思う、超一流の美術作品である。
18、19、30
素晴らしいの一言。生と死、男と女、空、海、全てが美しい映像、迫力ある音響と一体になった映画。見終わった後で映画のレビューを見ると、様々な伏線があったことに驚く。内容は淡々としたものなのだが、それを、まるで親戚の家や自分にあった出来事のように思わせる(宇多丸の映画レビューより)キュアソン監督の力は凄い。しかも、母親以外は全て演技経験がなく、セリフも演技もその場のアドリブで行っていたとのことで、なんという監督なのだろう。宇多丸も言っていたが、ネトフリ配信だからといって、絶対にスマホやタブレットで見るべきではない。部屋を暗くし、良い音響システムがなければヘッドフォンで音響を聞くべき、でも映画館がベスト。
家族になる
日本のネットフェックスでやっとみられた映画。長い間みたかったけどチャンスが全くなかった。
クレオ (ヤリツァ・アパリシオ) という家政婦を中心に展開するメキシコ映画だが、最後のシーンで家政婦を含めて家族になっていくシーンに心を打たれる。
中南米では一般論だが白人が芸能界の中心であり、ヤリツァ・アパリシオ(ミシュテカ(Mixteca)はメソアメリカの先住民)が 主役になったことで芸能界の動きが変わっていく。
☆☆☆☆ 掃除の時の水。雹。雨。水溜りの泥水。海水。 全ては水によ...
☆☆☆☆
掃除の時の水。雹。雨。水溜りの泥水。海水。
全ては水によって洗い流される。
メキシコ発のネオリアリズモ。
以下、個人的な意見ですので、かなりの部分で勘違いなレビューになっていますので。ここは1つ寛大な心でお願いいたします(_ _)
ファーストシーン。
この作品の主人公にあたる家政婦クレアは、雇用主の家の駐車スペースを洗っている。
飼われている犬は絶えずこのスペースで糞をする為に、清掃は欠かせない。
この場面で、彼女が撒く水はまるで鏡の様に天を映す。
カメラは下を向いているのだが、自然と天を見上げるが如くに!
何故かと言うと。この家がかなり裕福な為に、※ 1 このスペースは大理石で(おそらく)ツルツルだからだろう。
1971年のメキシコ。メキシコオリンピックから既に3年が過ぎた時代。
知識が無いので、当時のメキシコ事情は分からない。だが、どうやら大きな学生運動らしき事件が起こる等。この国では大きな社会変革が起こった時代とゆうのは、観ていても分かる。
その一因として、富裕層と貧困地域との格差が有ったのか? それは勿論、此方の知識が足りない為に分からないのだが…。
それでも、牧場へ旅行に行くと、富裕層らしき人達が射撃を楽しむ一方での、それに使えていると思える貧困層との違い。
栄えている都市部が有る反面で。彼女が男を探しに行く地域での社会インフラの遅れは、やはり対比させている様に見える…と思ってしまう。
但しそれらの部分は、物語の背景にしか過ぎないのかも知れない。映画が関心を示すのは、あくまでも家政婦のクレアに起こる様々な出来事なのだ。
ネオリアリズモは映画の歴史に於ける一大変化をもたらした。しかし、社会が繁栄するとそれを伝える事が難しくなって来る。
そんな中で、エルマンノ・オルミは『木靴の樹』とゆう名作を産む。
特に何も起こらない日常、それを淡々と写実するだけの3時間。しかし、そんな何も起こらない日常にこそ大きなドラマが『木靴の樹』には隠されていた。
子供を学校に行かせるかどうかで揉め。
娘に恋人が出来た様だと心配する。
人よりも数日だけ早くトマトが熟しては喜び。
特別な日には豚を解体するなど、3軒の家族が寄り添って生活する。
だが、そんな何も無い地域でも確実に戦争の気配は近付いていた。
『ROMA』本編でも上映が始まると、特に何も起こらない。ひたすらクレアを中心とした軸の中で、淡々と日々の暮らしが続いて行く。
そんな内容に、何処となく『木靴の樹』を思い浮かべていたところで、映画は突如としてクレアに大きなドラマが起こる。だが、まるでクレアは自分の運命を飲み込んでしまったのか?やはりこの後も淡々とした日々の暮らしが積み重なって描かれて行く。
だが…!
映画の中盤でこんな台詞が有った。
「山は低くても緑は繁る」
クレアは聖なる心を持つ女性だった。
犬の糞を始末しろと言われれば嫌な顔をせずにこなし。指輪には憧れるが、自分の指にはめる事などせず。バラバラになりそうな出来事が起こったこの家族に静かに寄り添う。
クライマックスと言える海岸の場面。
帰宅した子供達は笑い話の様に、その時の出来事を語る。大事に至らなかったからこそ、笑い話として話せる幸せ。おそらく、そんな話はいつの日にか日々の暮らしの中で直ぐに忘れ去ってしまうに違いない。
だが、月日が経てば特別に大した事では無かったのかも知れないが。間違いなく《アレ》は小さな奇跡に違いなかったのじゃないか?…と、ラストシーンのカメラは雄弁に語っていたのかも知れない。
ファーストシーンと違い、ラストシーンでのカメラは直接天へと向けられている。
エンドクレジットが終わり。映画は完全に終わろうとしているその刹那。微かに聴こえる鐘の音が3回囁く様に聴こえて来る。
「神様!あの奇跡は、あなたが聖なるクレアに形を変えて助けてくれたのではありませんか!」
※ 1 どうやら石畳が正解らしい。そして監督の自伝的作品であるのを鑑賞後、数時間経って知る。
また、帰宅中からこのレビューを書き始めたのだが。ラストシーンの意味を考えるにつれて、鑑賞中よりも時間が経ってからの方が数倍もの感慨に溢れて来る。余韻の深みが半端ない。
尤も、このレビュー自体はちょっと怪しいのだけれども(u_u)
2019年3月9日 イオンシネマ板橋/スクリーン5
ROMAの愛の物語
既に、言い尽くされてることかもしれないが、ROMA地区に住むクレオと、ソフィアの家族のAMOR(愛してる)の物語だ。
社会情勢が緊迫化する中で、彼らは必死に前向きに生きようとする。
この時期のメキシコは大きく揺れていた。
68年のメキシコシティ オリンピックは光の部分だが、前後に大きな民衆弾圧の事件が2度発生し、多くの市民が殺害されている。
イデオロギーというより、白人が先住民を支配し、社会に不満が溜まりに溜まっていたためだろう。
そのような情勢下で、ソフィアの夫は家を出て、家族の元には戻らず、クレオは反政府運動を行うフェルミンの子供を妊娠してしまう。
クレオの子供は死産だったが…、
クレオは、ずっと、その子は「生まれてこなければ良い」と願っていたために、罪悪感や後悔の念に苛まれることになる。
メキシコは、多くの市民が敬虔なカトリック教徒で、そんな背景も、クレオの罪悪感を助長したのではないだろうか。
そして、皆で出かけた旅先の海で、クレオは泳げないにもかかわらず、高波にさらわれて溺れかけたソフィアの子供二人を必死に助け出す。
自分の子供を失ったことへの、贖罪のような気持ちもあったのだろうか。
その直後、正直に後悔の気持ちを話し始めたクレオを、ソフィアの家族は優しく、強く抱きしめ、皆の関係は更に深まっていく。
エンディングでは、高地で乾いた気候には特有の、天高い空が広がり、希望を感じさせる。
深読みしすぎかもしれないが、ROMAには、カトリックの権威でもあるバチカンがある。
一方、遠く離れたメキシコシティのROMAには、こうした助け合う家族の物語があったのだ。
人々を育み救うのは、権威や、宗教やイデオロギーではなく、助け合ったり、励ましあったりする人々の「愛」なのだということもメッセージとして内包してるのではないだろうか。
そんな事も感じさせる物語だった。
この映画のコメントをしたくて、会員登録しました。この感動をうまく言...
この映画のコメントをしたくて、会員登録しました。この感動をうまく言葉には出来ないのがもどかしい。
冒頭のシーンから監督の意図することが伝わる。主人公の家政婦が一生懸命に石の床をゴシゴシと洗い流す映像が続く。何度も流すが、うまく排水されない。これを見て、この映画が順風満帆な映画でなないのだと心づもりをした。
予想通り、まだ幼い主人公と舞台であるメキシコには幾多の難が訪れる。何度も訪れるのだが、前半はまるでドキュメンタリーを観ている様な感覚だ。なぜなら、この映画には、BGMもなければ、登場人物の表情のアップもない。画面もモノクロで主人公は俳優経験ゼロと言うのも良い。大袈裟な表現を敢えて避け、淡々と流れる映像に、ぐいぐいと引き込まれて行く。
予期せぬ妊娠に見舞われ、出産するも死産となった。息をしない赤ん坊を抱きながら涙する彼女。その涙は、実は懺悔の涙だったことが後になり分かる。本当は生まれてほしくなかった…と、初めて自分の心を吐露した主人公。
吐露したのは、一家で出掛けたビーチの荒海にて。泳ぐ事が出来ない主人公だか、毎日子守りをしている子ども2人が荒海にさらわれてしまったのだ。
この映像は怖かった。まさか3人とも溺れ死んでしまうのか!どうか助かってくれ!と心の中で叫んでいた。
泳げない人が、あの様な波の中へ入って行けるのか??主人公は大切な子ども達を助けたい一心だったのだろう。やっとの思いで助け出した2人と抱き合っている所へ、雇い主の母親や他の兄弟達も賭け寄り抱きしめ合った時に主人公が発した言葉が「本当は生みたくなかったの」だった。抱きしめ合いながら、一家は各々に泣いていた。クレオは懺悔の涙。子ども達は溺れた恐怖からの安堵。長男は父に捨てられた悲しさ。母親はこれから母子で生きて行く船出の不安だろうか。
が、しかし、このビーチへの旅行は主人公にとっても、一家にとっても良い幕開けとなった様だ。旅行から帰ると、留守番の祖母?が子ども達の部屋の模様替えを行っていた。末っ子が「うん、僕これ気に入った」と、この映画で初めての明るい言葉を発した。その後、予期せぬとはいえ出産を望まなかった赤子への懺悔から解き放たれた主人公。本当に守りたい命は、私でも守れるんだ!と自信を取り戻したのだろう。屋上へせんたく物を干しに行く、主人公の足音は何とも軽い足音だ。その階段は真っ青な青空へ続いている様な映像に、私も心から安堵した。冒頭の、何度流しても排水されない不快さはもうなかった。
この映画をつまらないと評価する人もいる様だが仕方がない。この映画は、観る人がどれだけの人生を経験してきたかにより、評価が分かれる映画である。
監督の伝えたい事をどれだけ受け取れたかは分からない。が、しかし、私はとても心を揺さぶられた。この映画に出会えた事に感謝したい。
令和に劇場で初です。
初令和映画は、ROMAにしました。
なんちゃない、あるメキシコの中流家庭での
出来事。時代は、1970年の政治的混乱の時。
その家庭の出来事や家政婦さんの体験を
淡々とモノクロの美しい映像で見せてくれる。
ぜんぜんおもろない
さっぱり面白くない!つまらない映画!!!
これを素晴らしい♪とか評価してるマニアックな奴らの気持ちがさっぱりわからん!(ー。ー#)まず宣伝からしてつまらないし!
ダンボの方がずっと描き方が
キレイで素敵!(^^)
監督の半自伝的物語
タイトルはROMAだけれど舞台はメキシコ。モノクロームな映像が情緒的。ただ、時代も場所も文化も遠すぎて、残念ながら私には「こういう生活があるのかー」以上の感想が思いつかなかった。犬のフンは掃除してほしい。
日本の昔のモノクロ映画の感触
懐かしい感じの映画で少し切なく少し前向きになれた。地震、火事、デモと殺人、離婚、望まぬ妊娠と死産、溺れそうになる子ども。大変なことが沢山起こる一方で台詞は必要最低限。途中で眠くなったりもした。何となく知っているこの感じ、と思い、日本の昔の白黒映画を思い出しました。
静かな緊張感の美しさ
昨年度(第91回)アカデミー賞受賞作品としても、
映画館ではなくインターネット配信の作品としても、話題となった作品。
わたしは映画館で鑑賞。
映画館では、例えば上空を横切る飛行機の轟音や、町の雑踏など、
音の臨場感を存分に体感することができました。
劇中でドアを開けた音が聞こえて、
思わず映画館内の出入口に振り返ってしまった(笑)!
音もそうですが、
色を排したモノクロ映像の中で、
前景と後景がハッキリとした立体感を描き出しています。
例えば、遠くに見える森の火事や、
ベビーベッドを買いにきた店の外の様子と中からの映像、など。
見間違いかもしれませんが、
部屋に飾られていたのが "光の魔術師" ともいわれるフェルメールの絵?
白黒でありながら、この映画の光の見せ方とも重なるようにも思えます。
対比的なのは(前景と背景、光の濃淡と白黒の)他にも、
劇中に何度も登場する飛行機。
その下で暮らす地上の市井の人々を対照的に際だたせているのかな、と。
また、家政婦のクレオら(あえて一括りに)家族が暮らす家の全体をうつすカメラの動きは、
まるで演劇を見るときの視線のように感じました。
(演劇の舞台は、部屋の一辺の壁を取り除いたように作られる)
1970年代メキシコの社会、時代の激動の中で、
社会の最小単位とも言われる "家族" のあり方が、比例するように揺らいでいく様子、
何事もないような生活の中での不吉な予感と変化、
その微妙な緊張感が繊細で美しく映し出されます。
一つの小さな集団の変化、だけではなく、
クレオ自身の一人の女性としての吐露、
「欲しくなかった」
という台詞が、
おとなしくも切実な言葉として、胸の一番奥までじんと響きます。
映画館で観ないとダメなタイプの映画
やっと行けたアップリンク吉祥寺で、やっと観れたROMA。
世界の多くの人たちは、これを、家でPCの画面とか、下手するとスマホの画面とかで観たの…?ダメじゃない…?これ絶対映画館でスクリーンで観ないとダメなタイプの作品じゃない…?
画はずっとモノクロ、BGM的な音楽は一切なし、特に前半は淡々とした日常描写。
一番最初の、床がずーっと映ってるカットがものすごく映画的で、こんなにも映画的な映画を映画館で上映しないって…!?ってすごく混乱した。
私は映画的な読解力が全然ないので、あのシーンはどういう意味…?と思う場面もいっぱいあった。
と言ってもつまんないわけじゃ全然なくて、眠くなったりはしなかったし、基本は主人公の女性に感情移入する作りなので難解でもない。面白かったし、ああいい映画観たなー!って満足感もあった。
これをPCモニターで観るのは……と思ってしまう私がもう古いってことなのかなー。
ネトフリとかの高品質ドラマばっかり上映する映画館とかやっちゃダメなのかな。私みたいな人に需要あると思うけど。
あと成人男性がことごとくクズだった
家政婦を主役に据えた家族映画
筒井康隆の七瀬シリーズは超能力をもつ女性が家政婦になり家族の秘密を知る物語だった。最近では山田洋次監督の「小さいおうち」もブルジョワ家庭に住み着いて家庭内事情に関わらずにいられない家政婦の物語。この「ROMA」もやはり似ている。しかしほんのすこし趣が違う。ほぼちょい役のふたりの男、子供たちの父で医師のアントニオ、武道をやっている謎の男フェルミンが2人の女性ソフィアとクレアを同時期に不幸に陥れる。しかし彼女たちは淡々と運命を受け入れ、潔く生きて行く。
家政婦も不幸になり、雇い主も不幸になるという別々の不幸が重なるところにこの映画の説得力があるような気もする。アントニオとフェルミンは、男としての責任を放棄しただめな男たちではあるが、犯罪者というわけではない。
1970-1971の一年間、夫の不在、自動車、犬、銃、メキシコの裕福な農家、火事、地震、子供たち、女性たち、映画、テレビ、電話、音楽、手紙、恋と妊娠、出産、死産、若者たちの暴動、いろいろなものがモノクロで緩やかに詰まっている。
万引き家族でも海岸へ行き、海水浴をしたが、こちらでも海水浴はクライマックスにもってきている。
非常に地味な脚本で、映像演出もモノクロで長回しと引きの絵が多いせいか地味な印象だ。
しかし父親のいた時と居なくなったときを描いており、それが物悲しさを醸し出している。
遠くだったり近くだったり、話し声や生活音、立体的で繊細な音の作りが...
遠くだったり近くだったり、話し声や生活音、立体的で繊細な音の作りが、ゆったりとした清々しい雰囲気ではじまる。
女性達の周りのざわめきと、社会情勢が同時進行で激しく増していく中、随所に表現される、いざという時に役に立たない男性の描写が、女性達の力強さを際立たせている。
敷地内の水面からはじまり、最後には大きな波に立ち向かう彼女達の物語は、開放的な空に向かって新しくはじまる様だ。
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