「主人公になれない世界で生きるために。」ROMA ローマ すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
主人公になれない世界で生きるために。
〇作品全体
主人公・クレオは本作の主人公でありながら、作中の世界で主人公ではない。使用人として働く家で人生の大半を費やし、放っておかれた飼い犬のような存在として生きている。男女の関係になった男からも、関係性になんの山場もなく、情もなく捨てられてしまう。
クレオは誰かとの関係性において主導権を握ることはなく、自分を主張することはない。「ただの使用人」として、「ただの性のはけ口」として存在している。そうしないと自分が存在できないということを、今までの経験から悟っているのだ。
土地を奪われて悲しむ母のもとへ行ってはどうか、と使用人仲間から言われても、あっさりと「この体で行ってもなにもしてあげられないわ」と返す。クレオはきっと、妊娠していなくても同じようなことを口にしていただろう。「なにもできない」と。
クレオは自分が望む場所に留まることはできないし、誰かに役割を押し付けられて生きる、という状況を黙って飲み込んでしまっている。この世界で主人公になれないことへ抗うことを諦め、下を向いて生きているのだ。
物語が進むにつれてそのことを理解したとき、モノクロの画面と演出がクレオの心象風景と絶妙に合致するものだと気づいて、心に刺さった。
クレオが過ごす街には元々色味が少なそうだけど、モノクロが作る一番のインパクトは「空の無感情さ」だと思う。たとえ汚い街に住んでいても、くすんでいたとしても、空には青色がある。序盤で洗濯物を干す場面があるが、画面いっぱいに晴れた空を映しているにもかかわらず、この作品では灰色だ。ボーイフレンドを追った先にあるグラウンドの空も、飛行機が飛んでいるのがよく見える空でありながら、感情のないモノクロが覆っている。クレオにとって自分が望んで訪れたわけではない、ということをモノクロの画面が強烈に語り続ける。
そう、モノクロの画面は「語り続ける」のだ。劇的な絶望や衝撃的な悲しみがあるのではなく、クレオには常時うんざりするような世界が存在し続けている。ヒステリックに拒否反応を示したり、自己主張をしてもいい場面はたくさんあるのに、それをせずにじっとしているクレオは、別に無感情になったわけではない。「空の無感情さ」は、一方で「息苦しい世界で生きること」という心の痛みをクレオへ注ぎ続けているのだ。それがとても悲しく、心に刺さった。
使用人という役割を脱ぎ捨てるように、唐突に「本当は産みたくなかった」と涙するクレオと、その後に映す空の演出も素晴らしかった。
強い波に逆行して進むという、クレオに感情をさらけ出させるための潤滑剤のような演出を丁寧に重ねて、心から零れ落ちたかのように言葉を紡ぐのが、また良い。母親という役割まで担ってしまっていたらクレオの生活は崩壊するだろう、ということをほのかに感じる中で、自分を表現しないクレオがようやく吐露させる本音。悲しみと安堵の入り混じったような涙が、心に刺さる。クレオは無感情な脇役ではなく、その世界を生きる一人の女性だということを強く感じさせる。
帰りの車窓から眺める空も絶妙な塩梅だった。カラリと晴れてるのではなく、いくつかの光が注いでいるだけ。今がクレオにとっての目的地ではなく、これからがあることを強く訴えるような空だった。
主人公ではない世界に覆われた、モノクロという殻。とても分厚く、まだ少し日が差し込んだだけだけど、クレオの中でなにかが変わるかもしれない。そんな予兆の加減がとても優しくて、そして力強い主張のように感じた。
〇カメラワークとか
・空の見せ方はとても凝ってた。ファーストカットの水に映る空はキレイに映る瞬間はほとんどない。水面に揺れたり、泡で覆われたりする。水に映った空、とするところも巧い。クレオは虚構の空しか見ることができないという、本物の空がはるか遠くにあるような感覚。
ラストカットの中庭から映す空の狭さも良い。この狭さも、クレオの「これから」を予兆させる。本来は狭い空ってネガティブなイメージだけど、本作のラスト、と考えるととても前向きに感じるのが面白い。
◯その他
・犬が多く登場する。ほぼすべての犬が放し飼いにされている。自由奔放な生き方のように見えて、付随物のようにほったらかしにされているような存在に感じた。犬はあくまでも番犬で、愛玩用で、家族ではない。クレオの存在と似たような縁取りがされていた。
・まわりの人は目を瞑っての片足立ちができないのに、それを難なくこなしてしまうクレオ。誰にも見えない、いや見ようとしないところに個性をのぞかせるような演出が巧い。男を静かに待っている記号的な女だけではなくて、得意不得意の個性がある。