「ただこの映画を観てとしか言えない。」海獣の子供 はなさんの映画レビュー(感想・評価)
ただこの映画を観てとしか言えない。
まず映像がとてつもなく美しい。
あっという間に惹き込まれ、海で泳ぐシーンでは琉花や海、空と共に泳いでいる感覚になる。鮮やかで美しくいが、暗めのシーンではしっかりと海の恐怖、不安が伝わる。
そして第二に、音。
生活音だけではなく、琉花の心情をよく捉え、引き立てる音楽。これがより一層観る者を海の世界に誘い、映画が終わるまで、いや、鑑賞後数時間、海の世界から、
海獣の子供の世界から決して離さない。
生きているということが伝わってくる音楽なのだ。
ここからは個人的な映画の考察である。
①海と琉花が手を繋ぐシーン
"海"は生きる者と死んだ者の狭間の存在である。
一方、琉花は生きる者である。その2人が手を繋ぐということは、生きる者は死者と生者と共に生きているということを表しているのではないだろうか。
生者は死者を弔い、思い出を心に留め生きていく。誰しもが、過去の先祖の血を受け継ぎ、身体の一部となっている。そしてまた生者は生者と共に生きる。時に、死者に思いを馳せながら新たな時を過ごし、思い出を創り、生きていく。死者もまた生者がいなければ、自分の存在は消え、何も残らない。生者と死者はある種、共存しているのだ。その"生きる"というシーンを表現した場面であると考察する。
②琉花、海、空、アングラードの食事シーン
生者は死んだものを食べる。死んだものは、生者の血となり、肉となり、生者の命を繋ぐ。食べるということは、命を繋げる行為なのである。
③海が消え、琉花が何かを飲み込むシーン
このとき琉花が飲み込んだものはなんだろうか。
私はそれは、"海"との思い出や2人で過ごした時間であると考える。
"海"が死んでも、琉花は彼から受け継いだものを自分の一部として、生き続ける。海が死んでも、琉花の心の中には海との記憶があり、それは新たな命へと繋がっていく。その繋がりを表したシーンではないか。
だからこそ、その後に流れるオルゴールの音はハッピーバスデーの歌なのだ。
④琉花がへその緒を切るシーン
命が終わるということは、新たな命が始まるということでもある。食事にしろ、新たな生命へと繋がるものである。へその緒を切るということは、新たな命の始まりであり、過去の命の終わりなのである。
以上が私の考えた考察である。
この映画が伝えたいのはきっとそれだけではない。自分らしく、生きるということ、言葉にするのは難しいということ、宇宙と人間は似ているということ、人間が世界の中心では決してないこと。
とにかく、観る人の数だけ感じることも伝わることも全く異なる作品だと思う。兎にも角にも、この映画を観てほしい。この言葉には表せないこれを是非とも映画館で身体で体感してほしい。大切なことは言葉にならないのだ。
なお余談だが、エンドロールが流れるときに画面左側に椅子が映り、夜が明けると椅子に花が置いてあったことに気づかれただろうか。
あれは原作に出てくる話で、死者が帰ってきたら証拠として椅子に果物や花を置くという話があるのだ。
(つまり空と海が帰ってきた…?)
あれを密かに忍ばせると共に、米津玄師さんの壮大かつ美しい曲で終わりへと導いたのは本当に素晴らしかった。
長くなりましたが、ここまで読んでくださってありがとうございました。是非とも観て欲しい映画です。
私の場合、的外れかもしれないけれど、自分の感じたことやその解釈を言葉にしておきたくて、レビューしました。
はなさんの書かれていることに勝手に親近感が湧いたので思わずコメントさせていただきました。