世界で一番ゴッホを描いた男のレビュー・感想・評価
全15件を表示
複製の制作者。その動機と新しい仕事の意義。
本作品は「ゴッホの複製」に全てを賭けた男のドラマだ。
複製といってしまえば、それは平たく言えばまがい物であり、コピー品であり、
つまり我々がよく知っているあの《商標や意匠を不法に犯して世界中でチープな金稼ぎをする偽物市場》の、残念な姿なのだが、
まさかのその“偽物工場"を取り上げてのドキュメント。
働く男に焦点を当てた大変珍しい映画なのだ。
・複製は 低級品。
・いかがわしいからダメ。
・丸写しはやってはいけない事なのです。
― この“正義観"は、テストのカンニング行為や、夏休みの宿題のズルが 許されない卑劣な行いなのだと、ずっとずっと教え込まされてきた我々の「規範」だし、それらは僕らの骨身に、幼い頃から染み込んでいる「道徳」。
だからコピー品も、コピー品を作る人たちも、そしてその工場を抱える国のことも嫌いだし、軽蔑してしまいたくなるのも分かる。その感情は身に覚えがある。
でも!まさに!そこをポジティブに昇華させているこの映画の着目に驚くのだ。
・・・・・・・・・・・・・
学生時代に僕はギリシャ語聖書をテクストとする「写本学」をかじった。
いにしえの写本家が、原典や原本を手本として、忠実に肉筆で写し取ろうとするその作業を、コピー複製された複本を俎上にして、そこから様々な情報を読み取ろうという学問である。
もう少し詳しく説明すれば
「写本」とは、心を無にして写し取る行為。
もし例え原本上に文法やスペルのミスを発見しても、ミスをミスとしてそのままで写本する。訂正や改善や解釈をしてはならない。
雑念を払い、恣意的な改変の欲を捨て、ただただその原典への畏敬のみから、自分の存在を消して使命にいそしむ訳だ。
しかし、ところが!
写本学の面白さは、第一段階として、ミスもミスのまま写経する、写譜をする、コピーをする=つまらないが正しい行為に挺身した写本書記たちへのリスペクトと、
そして第二段階として
興が乗ってしまったが故に筆が滑ってしまった写経屋・写譜屋のメンタルや、それをさせた当時の時代的・文化的背景を、欠格コピー品の裏側に発見し、そこを批判的に読み取る学問なのだ。
より古く、より短く、より稚拙で難解な写本がより原本に近いとされるのが写本学なのだ。
(逆に言うと より新しく、より長く、より読みよい写本は後代の物と見なすという原則がある)。
自分のパーソナルな衝動を抑えきれない職人は、その仕事に不適合で、失格者なのだ。
中国。深圳のターフェンで、20年間、数万枚のコピーを作るこの複製工房。
職人たちは “正しく自分を殺して"忠実に原画を写し、「ゴッホのサイン」を入れ続ける。
ところが本作、
趙小勇=チャオ・シャオヨンは、ついにコピー行為に飽き足らず、彼は道を踏み外し、アムステルダムへと出かけてしまう。
出家だ。
写経の道。般若心経を知る我々としては、そこに欣求する信心を理解しやすいのではと思う。
膝を打ち、筆を置いて立ち上がる。
「信従」が起こるのだ。
人生の旅路において、ついに本物に出会うと
修行してきた者の技術が変わる。
技術が変わるだけでなく、人間も変わる。
その変化の内面を写し取ったこの映画は、僕自身の衰えていた「本物への憧れ」を静かに再燃させてくれるものだった。
趙がアムステルダムで目撃したのは ―
①太刀打ち出来ないと知ったゴッホ真筆の輝きと、そして
②自分たちの作品が画廊ではなくて道ばたの土産店で売られていた情けない光景だった。プレハブの小屋だった。
が、
衝撃のその光景を、趙は新しい仕事へのきっかけにする事が出来たのだ。
いじけるのではなく、挫折するのでもなく、むしろあのゴッホの境遇をそこに重ね見て、喜びと芸術へのマグマを、彼は自身の内に感じたのだ。
20年間の徹頭徹尾があったからこそ、あの人はプレハブの土産屋には負けなかったのだ。
中学中退の辛かった境遇に思わず涙する本人。
子どもたちの苦労や貧乏生活を語る場面では暗い「馬鈴薯を食べる人々」が映る。
素晴らしい編集だ。
趙はゴッホの弟子として
フィンセント・ファン・ゴッホが誰からも理解されずに、その生涯を貧しく閉じたように
趙はオランダに同行した絵描き仲間に向かって「オリジナルを描こうじゃないか」と熱く提案する。
彼の凄まじく燃える目。
尊敬するお婆さんをモデルにして絵筆を振るい始めた彼の目。
工房の仲間や妻の姿を描きながら 熱く語りだす趙。
「ゴッホは俺たちを見ていてくれたはずだ」
「今は評価を求めない」
「こいつらの絵はダメだと今 言われても」
「50年後、100年後だ」
「俺の人生が俺の芸術」
と、熱意がその口からほとばしり出る。
このドキュメンタリーの頂点の場面だ。
下積みを経てきた者だけに与えられる、本物に出会うことの圧倒的事件が、ここに有るだろう。
鳥肌が立つ。
ひたむきさに打たれる
アジアンドキュメンタリーズにて鑑賞。
以下に作品紹介を引用。
◯ゴッホの複製画を描くことに人生を捧げる男を追ったドキュメンタリー映画。複製画の制作で世界の半分以上のシェアを誇る油絵の街、中国・大芬(ダーフェン)。出稼ぎでこの街にやって来たジャオ・シャオヨンは独学で油絵を学び、20年もの間ゴッホの複製画を描き続けている。誰よりもゴッホの絵を知り尽くし、ゴッホと共に生きるジャオだったが、実は本物のゴッホの絵を観たことがない。どうしても本物のゴッホの絵を観たいという夢は日増しに募り、夢を叶えるためにアムステルダムを訪れるのだが…。
このシャオヨンのひたむきさに打たれる。
描く複製画の量が、一カ月で700枚などというとてつもなさなのだが、そこにはいい加減さや手抜きはない。
ゴッホへのリスペクトを持ち続けて、ゴッホになりきって筆を走らせるシャオヨンを観ていると、「アート」とは何かという問いを改めて突きつけられる思いだ。
映画の中では、彼らが丹精込めて描いた作品が、実はアムステルダムでは土産物屋で、仕入れ値の10倍くらいの価格で売られているという事実が示される。
描いている側の矜持と、生み出された物の評価とのギャップは、当たり前といえば当たり前かもしれないが、とことん切ない。
その分、映画後半でシャオヨンがオリジナルの制作に向かおうとする方向に、素直にエールを送りたいし、もっと言うと、この深圳の油絵村にスポットを当てた、複製画職人の描いた複製画と、その職人のオリジナル作品とを並べて展示する展覧会なんて、「アート」の問い直しとしてとても興味深いのだが、どこかのキュレーターさん、そんな企画をしてくれないだろうか。
絶望と希望と
見たいと思い続けて5年、ようやく鑑賞。
素晴らしかった。
原題は「中国のゴッホ」。
名画の模写を大量生産し世界中に輸出している中国の村があることも知らなかったし、こうやって中国の人々が日々の厳しい暮らしに耐えていることも知らなかった。
主人公をアムステルダムに招待してくれた店主は、善意の人なのだけれど、自分の作品が卸値の8倍9倍もの値段で売られていることを知って主人公は愕然とする。20年、結果的に店主は彼らの労働を搾取し、彼らはオランダ人の豊かな生活を支えてきたのだ。なんともやるせない脱力感と無力感。店主への感謝と相反する恨めしい複雑な気持ち。
東西の経済格差。情報の格差。世間の常識や知識量の格差。
主人公は小学校しか出ていない出稼ぎの画工だ。もっと早く知っていたら、値上げ交渉もしたでしょう。
一方で、市井に生きる中国の人々の人間味あふれるやりとりに心があたたまった。
日本人の人間関係は遠慮がちだけど、人と人の距離が近い。
また、本物を知らないままコピー作品を作り続けてきた主人公が、搾取する資本主義システムから逃れられない身でありつつも、自分のオリジナリティ作品の制作に目覚める過程に、一縷の希望を見出した。
【”職人と芸術家の狭間で・・。”ゴッホの複製画を20年、制作して来た男が本物のゴッホの絵画に衝撃を受け、夢、苦悩、葛藤の中、自身で下した決断する姿を描いたドキュメンタリー作品。】
■趙小勇は独学で油絵を学び、20年にわたって深圳の”油画村”でゴッホの複製画を描き続けていた。
だが本物のゴッホの絵画を見たことはなく、想いを募らせた彼は念願だったアムステルダムを訪れる。
そして、自分が描いたゴッホの油絵を見つけるも、その店は観光ショップだった。
しかも、値段は自分が売った値の8倍。
更に彼は、夢にまで見たゴッホ美術館で、「ひまわり」「ゴッホの自画像」を丹念に観て、本物のゴッホの絵画に衝撃を受ける。
そして自分は画家として何を目指すべきなのかを思い悩む。
◆感想
・中国の深圳の”油画村”で、ゴッホの複製画を20年、10万点以上家族と製作してきたという、趙小勇のお金がなくて、中学一年までしか学校に通えなかった生き様に驚く。
・複製画ビジネスの実情と制作過程にも触れている事も、興味深い。流れ作業の様に油絵を製作する様。世界中から注文が入る様子。
・そして、彼が夢にまで見たアムステルダムで経験した事と、行動。
彼は、ゴッホの原画に衝撃を受けつつも、キチンとゴッホが通っていた病院、そして終生ゴッホを支えた弟テオの墓に並んでいるゴッホの墓に足を運ぶ。
彼が、如何にゴッホを愛しているかが良く分かるシーンである。
<そして、帰国した彼は、大きな決断をする。自分のオリジナル作品を描くという決断だ。
最初のモデルになったのは80歳を超える、趙小勇が”一番好きだ”という祖母である。
その絵から伝わるモノが、素人ながら何だか沁みてしまった・・。
今作は、複製画に携わる男が抱く夢、苦悩、葛藤を描いた佳き、ドキュメンタリー作品であると思った。>
健気さに胸打たれる
20年もの長きにわたり、中国・深圳でゴッホのレプリカを描き続けてきた主人公。貧しさゆえに中学一年までで学業を断念し、油絵は独学で身に付け、ゴッホを神のごとく崇拝する。
「いつか本物を観たい」との夢を叶え、アムステルダムへ。そこで彼は、自分が描いた絵が画廊ではなく土産物屋で、卸値の8倍で売られているのを目の当たりにし、ショックを受ける。
さらに、本物のゴッホを観て「比べるべくもない」と打ちのめされる。
「夜のカフェテラス」で描かれたアルルのカフェや、ゴッホが入院していた精神病院を訪れ、オーヴェル・シュル・オワーズのゴッホの墓に花を捧げ、「ようやく会えた」と感激し、語りかける。
「おれたちは結局、職人だったんだ」としょげながらも、仲間に励まされ、「自分の絵を描こう、想いを伝えるんだ。50年後、100年後に突然認められるかもしれない」と気勢を上げる。
ゴッホに憧れるひたむきさと健気さに胸を打たれた。
だれか、中国のヴァイオリン職人を取り上げたドキュメンタリーも、作ってくれないものだろうか。
あなたの仕事は模倣ですか?オリジナルですか?
20年ゴッホの複製画を描き続けた、中国人画工チャオ・シャオヨン。20年ゴッホを描き続けたのに、実物は見たことはない。「実物を見ればきっと“気づき”が得られる」と、オランダ行(ゴッホ美術館がある)を願っていた。妻の説得、ビザ発行諸々を経て、憧れの地・アムステルダムへ。
****
自分の絵が画廊などではなく、“お土産屋さん”で売られていたこと、それでいて売値の10倍弱の価格で売られていたこと(それだけ、チャオの絵が安く買いたたかれているということである)――何より、「オリジナルでは何を描いているのか?」という問いをぶつけられたこと。
技術者(=画工)と芸術家って両立するのか、と苦悩するチャオの姿は仕事する人ならだれでもぶつかったことがあるはず。生きてる間に認められないかもしれないけれど突然、50年後100年後認めらえるかも、とオリジナルを描いてみる第一歩を踏み出したチャオの姿に爽やかな感動を覚えます。
また、個人的には油絵の1つ1つ色を塗り重ねるさまに例えて「結婚した当初は不安だった」と。
「でも、色を重ねるようにここまでやってきた」という趣旨のセリフに胸が熱く(途中“夫唱婦随”と同僚たちに言われるくだりがあるので、いっそう)。
高度で残酷な芸術論
中世以前、画家という職業は間違いなく「職人」であったはずですが
じゃあ現代の「芸術家」と「職人」の違いとは何なのか?そもそも芸術家とは何なのか?芸術とは?
んなもん答えが出るはずもありませんが、それでも主人公のおっちゃんは宣言しました。「俺の人生が俺の芸術だ!」
今作で私が最も印象的だったのは、
アムスで資本主義的搾取システムに失望する主人公でもなければ、ラストで芸術に希望を見出す主人公でもありません。
主人公が尊敬と生活と魂を込めた複製画など及びもしない、ゴッホ真作の輝き、禍々しさ、筆圧、技術の差でした。
スクリーン越しの素人ですら分かってしまった。おっちゃんは私の何百倍も分かってしまったはず。残酷やね。
それでもヤケッパチで前を向き、ゴッホを愛してる!!と叫ぶ「画家」たちの姿に救われます。
このおっちゃんが良いキャラなんだわ本当!
描いた枚数が半端ないわ
中国で20年複製画を描いてきた男を追ったドキュメンタリ映画。面白かった。
男を通して様々な違いが浮かび上がる。芸術家と職人、都会と田舎、中国と欧州。食うための過酷な生活とゴッホへのピュアな憧憬。
描いた絵が数倍もの値で売られている事実に、複雑な表情を浮かべるのも無理はない。だが、この人の生き方は映画として残った。
最後に自分なりの前向きな決断を下したチャオさんに幸あれ。
覚醒
それまでモヤっと抱いていたものが 旅の果てに確信に変わり 男の人生に新たな一歩を踏み込ませる
その瞬間には心を動かされました。
本物に触れて本物になろうとする。足掻きかもしれないがその姿勢が清々しい。
欧州行では髭もキチッと剃り、目つきも表情も別人みたいでカッコ良かった。
資本主義経済における芸術とは何か?
中国で長年ゴッホの複製画を描いてきた男を追ったドキュメンタリー。
前半は、複製画工房が集まる“油画村”大芬にカメラが入る。
アパートの一室でゴッホからモナリザまで、名画の複製画が作られている光景はもうビックリ。
注文は月に何百枚と入り、画家たちはひたすら描き、仕事場で食事をして、その場で寝る。
後半は、彼の地で工房を営み、20年以上ゴッホを描いてきたチャオがオランダに行き、初めてゴッホの絵を見る様子を追う展開で、これまた興味深い。
チャオはアムステルダムで自分が描いた絵を見付ける。そこがギャラリーではなく土産物屋であることに、そしてその販売価格の高さを知り、彼は傷付く。
そして彼はゴッホ美術館に行き、自分が描いてきた絵の“本物”と出会う。
旅先のホテルで、中国からいっしょに来た仲間と「自分たちは画家じゃない、職人だ」「いや、そんなの言い方が違うだけだ」と議論する。チャオはいい歳だと思うのだが、本物に出会って、こういう若い議論をしてしまう、というのが面白い。
そしてチャオは、帰国して、複製画ではない絵を描き始める。
複製画は20年以上描いてきたのに、これまた本物のゴッホに出会ったら、彼の中の芸術家が目覚めて、自分の絵を描き始めたのだ。
なんとも瑞々しい瞬間がカメラに収められている。これぞドキュメンタリーの味である。
そもそも芸術とは何か、複製は芸術ではないのか、さらに、こうした問いは、いまの資本主義経済ではどういう意味を持つのか、などということも考えさせられる作品である。
なんか驚き。
こんな村があるなんてなんか驚き。複製画を作製することが商売としてなりたち家族やら出稼ぎの人達が独学でこんなしっかりした絵を描けるなんて。これだけ長年描き続けていれば絵心あれば腕はどんどん上がるだろうからオリジナル描けば良いのに、と思ってたらやっぱりそうだよね、と。
生活のため、っていう意識のが強いからそれすら気がつかず無我夢中な毎日なのかな。
とにかくなんかいろいろすごいな、中国。
偽
中国の複製画職人チャオさんの汗、涙、息、魂の全部が入った「偽」のゴッホが、まさか元値の10倍でオランダで売られてるんだなんて。しかも画商ではなく、お土産屋さんで。でもチャオさんは前向きでひたむきです。それがとっても気持ち良い作品です。
本物のゴッホだって、ダメ人間で生きてる時に売れた絵は1枚しかなかったんですよね。ゴッホが高尚なんて今だからそうなっているけど、その時代はまさかな事だったんだし、チャオさんの複製画も後世に評価される時代が来るかもしれません。
昔の俺達がいる
ゴッホに恋い焦がれ同化を夢見た、複製画工房の親方の話。
ある時は弟子と、別の夜は複製画仲間と酒を飲み交わし、芸術とゴッホを熱く、暑苦しく語る姿。
これ、若い頃の俺達じゃないか。
アムステルダムでホンモノのゴッホを、その目で見た親方、帰国して更に高温化します。日本も負けてらんない。産熱しなくなって冷えて白く固まるのは嫌だしね。
熱さの伝わる記録映画でした。
追記
「芸術は爆発だ」と言ったのは岡本太郎。アムステルダムで打ちひしがれながらも、その悔しさを爆発の燃料にしちゃう親方は偉い。慢心する「日本人」に見て欲しい、今の日本を振り返るキッカケにして欲しい映画でした。
これこそ本当の「億男」!
やはりドキュメンタリーのパワーは
作劇を超える力がありますね〜!
本当の意味でリアルにお金について
考えさせられる映画です。
何気ない所で合法的に搾取されている人たち、
そのおかげで恵まれた先進国の世界が
維持されている事実に衝撃。
これから展覧会出口の複製画を見る度に
そこに秘められたドラマを思ってしまう
ことでしょう。
全15件を表示