劇場公開日 2018年11月17日

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「すべては消えてゆく…それでも…」A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー ヴィアゼムスキーさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5すべては消えてゆく…それでも…

2019年2月15日
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余白の多い映画だ。論理的解答を用意していないが故の豊かさがある。存在論、認識論、時間論として見てもいい。時間の持続、圧縮、飛躍、反復がある。最後に重層的で厚みのある時間・空間に到達したとき少し泣いてしまった。エクリチュールの痕跡、消滅、見事な幕切れ。

時間芸術という小説の側面をうまく活用したトーマス・マン『魔の山』を思い出してもいい。序文にこれは時間論だと書いてあるしな。主人公がサナトリウムに行く1日目は精密な描写で非常に長い。それが2日目からはだんだん短くなり、1週間続くとその後2年間くらいがあっという間に過ぎ去ってしまう。

この作品でも、アフレック(ゴースト)とマーラの家での時間が最も長く、ゆっくりとした感覚で描かれている。その後は少しずつ短くなり、あっという間に時間が飛ぶ。冒頭と劇中に引用されるヴァージニア・ウルフ小説の如き"意識の流れ"にも通ずる時間感覚と言ってもいい。

(余談だが、この映画で引用されてるヴァージニア・ウルフの「幽霊屋敷」は4〜5ページくらいしかない短編で不思議な後味を残す。ぜひ読んでもらいたい。)

(更に余談だが、『魔の山』では舞台のサナトリウムが時代のフィジカルな側面から断絶した場所、時間が静止した場所として描かれていたけど、登場人物がそこから下山し、時間へと回帰するには、病状回復よりむしろ自ら成すべきことへの意志が熟すことが必要条件であるかのように描かれていて風立ちぬ〜)

この作品で最も言及の多いパイを食べ続ける5分弱の固定カメラ長回し。「悲しみが伝わってきた」という肯定的意見、あるいは「退屈で苦痛だった」という否定的意見、どちらにせよ、あの気の遠くなるような時間こそを共有しろよ、立ち会えよ、凝視しろよ、ということだろう。時間的持続の中に我々を静かに巻き込み、彼女を凝視するゴーストとの共犯関係を結ばせる。

最愛の人を亡くすという飲み込むことが不可能な巨大な喪失感。その代替を果たすかのように、手元の小さなパイをひたすら機械的に飲み込むという行為。本来は生命維持に不可欠であり、文化的な楽しみも含んでいる「食べる」という行為を通して、飲み込めない悲痛さを表現したこの場面は素晴らしいものだと私は思う。

この場面の音にも注意を払ってほしい。ルーニー・マーラの鼻をすする音や、フォークと食器のぶつかる音の他に、外から子供の声や車のエンジン音が聴こえてくる。つまり、外の世界は昨日と連続した変わらないものであるのに、夫を失ってしまったこの家・この私は昨日とは決定的に変わってしまった…という対比として立ち現れてくる。

(またまた余談だが、ルーニー・マーラはヴィーガンなので、あのパイはヴィーガン用に味付けされたものらしく、味がめっちゃ不味かったらしい…。泣きながら食べてたのは不味すぎてだったのかもしれない…。)

ルーニー・マーラがパイ食べる前に洗い物したり、ゴミ箱を見て一瞬の間があったり、ベッドシーツ洗濯しようとして泣いちゃったりとか、あれも説明はないけど夫が死んでからシーツ洗ってないしゴミもそのままで何も手がつけられなかったってことだから台詞なくても映像で十二分に語られてる。

この映画のフレームは四隅が丸く切り取られたスタンダード・サイズ。プライベートフィルムを覗き見るような懐かしさと親密さがある。この狭いフレームによって、2人が寄り添って同じ枠に収まる距離の近さを保証するし、逆にゴーストが家・土地から出て行けない閉じた牢獄として象徴的に機能しているように思う。

個人的にはルーニー・マーラの線の細さと、幽霊のシーツのふわっとしたシルエットが同じフレームに同居するルックだけで満足してしまったところはある。

あと、あの時間跳躍で「アメリカの起源にまで遡ってその歴史的記憶(原罪)をも総括するつもりなのか!それはいくらなんでも超大すぎるだろ!」と一瞬びっくりした…。当然そんなことはなく、慎ましくも感動的、あくまでパーソナルなとこに回帰してくれて良かったよね。少しテレンス・マリックっぽさあるけど。

あの時・あの瞬間を理解するためには長大な時間的飛躍、スケールが必要だったっていうのはロジックではなく感覚的にスッと理解できるというか、過去の誤ちをずっと後になって理解できる感覚に近いというかなんていうかね

ラストの反復されるあの場面のゴーストは意味理解の審級が繰り上がった主体としてあるように見える。客観化されたかつての「私」は私そのものではなく、そこから逃れる現在の「私」こそ、自己と世界に意味を与える固有の存在なのだ。なんつって。

メルロ=ポンティおじさんが言う実存の問題とかね。彼の言う実存とは、事実・状況を捉えなおし、そこに意味を生じさせること。換言すれば、超越の運動のことだ。まあここでは言語や制度化の問題について語られているのだけど…

あと、ルーニー・マーラが主題曲になっている『I Get Overwhelmed』を聴く場面もよかった。ヘッドホンで聴く過去と、床に寝転びながらイヤホンで聴く現在のカットバック。音楽は連続していながら現在パートはイヤホンから漏れ聴こえる音響設計。

このときの画面の停滞感と比較して、ひたすら美しい音楽が流れていくってのがいいんだよ。停滞した映像は「瞬間」を、流れる音楽は「時間」を表してるのかな。

ゴーストが消滅する瞬間にシーツがフッと地面に落ちていく様の微かな浮遊感・質量感にハッとするような驚きと快感がある。それこそ、メリエスの時代から連なる見世物としての映画のトリック感というか。スペクター(幽霊)とスペクタクル(見世物)、そしてスペクテイター(観客)の幸福な関係というかね。

書きたいことは山ほどあるが語り尽くせない魅力に溢れた作品であることには違いない。

ヴィアゼムスキー