幸福なラザロのレビュー・感想・評価
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現代に聖人が現れたら
前半、この物語は何を描こうとしているのか判然としなかったのだが、後半は一気に引き込まれた。小作農を違法に就労させていた、隔絶された村が解体され、人々は散り散りになり貧しい生活を強いられている。主人公のラザロはかつて崖から落ちて死んだはずだったが、時を経て当時の若い姿で息を吹きかえす。「復活のラザロ」そのままに蘇った彼は聖人なのか、現代にもし聖人が現れたら、我々は聖人をどう扱うのだろうか、との問いを投げかける。
聖人は社会のルールに縛られない存在だ。社会には多くの理不尽があり、不当な制度がある。そのルールに従いながら生きる現代人は、聖人を受け入れることができるのか。受け入れることができるとすれば、同じく社会からはじき出された存在であるホームレスの人々だけだった。大変巧みな構成の物語で、新たなクラシックとなり得る可能性を秘めた作品ではないかと思う。クストリッツァのアンダーグラウンドが好きな人なら必ずハマるだろう。
宗教要素が苦手な人でも割といける
私自身いわゆる宗教映画が苦手で、信じる者は救われるといったたぐいの話を大真面目に語る作品は避けたいクチだ。それでも本作は、死から蘇った聖人ラザロと同名の青年を主人公にしているものの、決して説教臭くはない。むしろラザロは触媒として機能し、彼の存在によって周囲の人々の本性が露わになり、あるいは変化を促される。ラザロは何も変わらない。
寓話のようだが、イタリアの人里離れた村で現実に起きた事件を題材にしたストレートな告発でもある。1980年代にもなって地主が大昔のしきたりで住民たちを搾取していたという詐欺事件。別世界の出来事のようだが、私たちにある問いを投げかけている気もする。普段常識だと思っていること、当たり前の事実として受け止めていることが、実は壮大な「嘘」だとしたら。私たちもあの村人たちのように権力者から騙されているのかも。そのことを、ラザロは私たちに気づかせようとしているのかもしれない。
ドラマに深みを持たせる宗教や奇跡という概念
太陽と大地の恵みを受けて荒れた大地に作物を植え、僅かな収穫を言い値で領主に献上する農民たち。日々の食料にも事欠き、農場を離れていく若者たちもいるが、そんな土に根ざした生活と、民主主義が導入されて以降のイタリアの近代史を、年を取ることなく跨いでいく聖人、ラザロ。彼の目を通してすべてが描かれる。激変する価値観に踊らされていく人々と、何も望まないラザロを対比させることで、人間の醜い素顔があからさまに浮かび上がるという手法だ。これは、宗教や奇跡という概念がドラマに深みをもたらすイタリア映画伝統の技。現実には起こり得ない現象を用いて、描くテーマに普遍性をもたらす。映画にのみ許された特権が、久々に巧く行使された例だ。
ぼくらが失い続けているもの
「昔はよかった」なんて言う老人にはなりたくないものだと思う。
たいていの場合、そういう記憶は都合よく改ざんされているものだし、
今は今の、昔は昔の、人それぞれに抱える地獄があるだろうと思うからだ。
かつて小作人たちが搾取されていた時代、
彼らはより弱い存在であるラザロを小突き回していた。
牧歌的な暮らしはのどかだったが貧しく、閉塞的だった。
小作人たちは解放されても貧しかった。
相変わらず貧しかったせいで、目の前の奇跡にも気づかなかった。
ぼくらはきっと、目の前に現れる聖人を殴り殺し続けているんだろうと思う。
作中で救いは描かれなかったけれど、
ここに気づかせてくれたという一点で、見て良かったと思える作品だった。
ガンジー見たい
キリスト教と資本主義(マクロ経済)を批判しているのかなぁ?
かなり、社会派の映画だと思った。傑作だ。
泣けてくるが、それだけじゃない。キリスト教の救済と言うより、ガンジー見たいな感じだと思う。
単純に小作人対資本家と見るより、このタバコ農園を独裁国家(共産主義、若しくは国家社会主義)と見たらどうだろう。そこから、解放はされるが、周りも地獄。だから、右とか左では無いと僕は感じた。
この人の作品は凄いよ。
情報を入れずに観たら
情報を入れずに観たら、NHKのBSでイタリア田舎ドキュメンタリーを途中から見始めたような感覚に。
16ミリフィルムでの撮影も相まって、この集落の生活に寄り添えました。
途中からの展開はファンタジー、観るものを置き去りにして遊んだ監督。
復讐しても不思議ではない相手タンクレディを住処に招き入れたり、タンクレディからのご招待の嘘にガッカリするも超高級菓子を置いて帰る一行。
神の祝福の音楽がついていく。
聖書の貧しさと復活の人として知られるラザロという名前の少年を軸に、視聴者をリード(ミスリード?)していく。
これは何だったんだ?という余韻が楽しめるか、腹を立てるかで評価が異なる作品と思います。
聖人あらわる
“社会派映画”として、この世の荒廃を鋭く指摘しつつも、それぞれの人の心に対しては“癒しと希望”を与える現代の寓話。
驚いた。若い監督が脚本まで手掛ける。巨星出現と言わずして。
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都会に暮らす かつての村娘アントニアの目の前に、幻影のように現れるラザロ。
村のパシリだったラザロ。
懐かしく穏やかな笑みを浮かべてあのラザロはそこに現れ、対面するアントニアはラザロの前に駆け寄り、足元に額突く(ぬかづく)。
・・ふるさとの泉の傍らで、遠いあの日に淹れてくれたコーヒーの礼と詫びを言えずにいた、今はスラムに暮らす女=アントニアに、今一度の再会の奇跡が贈られて、今も昔も怒りを向けるどころか無償の愛を差し出すためだけに現れたラザロを、アントニアは ただただ嬉しくてかき抱く。
ややあって、
アントニアと村人は静かな喜びと高揚感を携えてトラックを押して家路につく。今度は振り返らずに。
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今作のラザロくん、
彼に重ねて思い出すのは「グリーン・マイル」で黙したまま電気椅子に消えたコーフィーや、傷兵を担ぎ続けた「ハクソー・リッジ」、そして青の洞門の禅海和尚などなど・・
私たちの世界の歴史に、時に“客人”(まれびと)として顕現し、そして去っていった“聖人”の姿に、また伝説として語り継がれてきた“愚か者”たちの声と眼差しに、私たちは何を見、何を聞いてきたのであろうか。
エンドロールでラザロの思い出が村人たちによって素朴に歌われる。
恐らくこんな内容で歌っているのであろう ―
「昔ラザロという若者がいたよ、いいやつだったよ、愚か者だったよ」
と。
〉主人公に魅力を感じなかったので退屈だった
― というレビューも散見するが、それは無理からぬことと思う。
⇒劇中でも復活したラザロを「悪魔、ごくつぶし」と言って嫌う老人はちゃんと描かれているからだ。
だからこう言えるだろう、
邦題「幸福なラザロ」は「馬鹿なラザロ」「ぬけさくラザロ」ということだ。
そしてどこまでも控えめなラザロは、アントニアとタンクレディの前にしか現れない。
つまり、
《ラザロの生きざまに惹かれるアントニアとタンクレディと観客にだけ、ラザロは現れる》。
映画の中盤、社会の格差と搾取問題が大きくクローズアップされたかと思いきや、そんな世界に生きるわずか数人だけの個の記憶に収れんして物語は閉じる。社会改革の指導者としてではなく温かい思い出として、ラザロは幸福を与える福者として、救助を必要としている者の所だけに来てくれる。
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映画の構成は
村⇒資本主義社会⇒個の魂の救いという流れ。
不思議な起伏だ。
「私のラザロ」をば、現代社会に呻吟つつ、どこか心の中で待望している我われ人間が、記憶の中の憧れの存在を呼び、深奥にナマに彼を想起したときに、私たちもエンディングのあの歌のように、きっと心の中に歌うのであろう
サハイフヒト二ワタシハナリタヒ
と。
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野暮だね、こんな分析レビューは。苦笑い。
詩を感じるのは個人だから、この映画に関しては個人として応えなければね、
アントニアは、老人たちを受け入れ、高額のお菓子を惜し気もなく与えた。
僕の心にも、何かじんわりと浄めをもたらし、静かな革命を起こす、とてつもない映画だと思いました。
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主演のアドリアーノ・タルディオーロくんありき。
他の作品には出てほしくない。
タイトルなし
1980年代イタリアで実際に起こった
詐欺事件をモチーフに
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社会と隔絶した小さな村で暮らす村人
無垢な魂を持つ善人ラザロ
時代にそぐわない不当な待遇でも
何も持たず何も望まず目立つこともない
その姿は…聖人
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[監督のことば]
尊さとカリスマ性は別物と感じています
もし聖人が今日現代社会に現れたとしたら
その存在に気づかないかもしれない
もしかしたら何のためらいもなく彼らのことを邪険に扱うかもしれない
作品を通して伝えたい聖なることとは
人間の尊さを信じるということ
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『ラザロ』『ラザロ』
皆が呼ぶその声が耳にずっと残る
涙が自然と流れる
心に残る映画です
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善くありたい
…観てよかった😌
聖書をモチーフにしてるみたいけど、軽く宗教批判してる気がする
最も重要なテーマは資本主義社会の構図そのものなのでしょう。資本家と搾取される農民たち。前半の侯爵夫人による小作農からの搾取。そして後半(20年後くらい?判断材料はピッポやステファニアの年齢))の街の様子。時代は変わっても資産を持たない社会的弱者はいつも搾取されるだけで、その人生は変わらない。もちろん、隔絶された社会に住んでいて、時代を乗り越えられなかったとも取れるのだけど、後半に目撃した移民たちに日雇いの仕事を仲介する二コラが同じ商売だったこともシニカルに描かれていた。
そんな搾取される側でも働き者として忠実に仕事をこなすラザロ。聖人として見ることができるのですが、後半のラザロは狼が与えた命。狼が神?何言ってんだい!こちとら大女将だよ!などと、村の長老たる婆さんが言うかもしれない。神が宿っている狼ともとれるが、すでにキリストの世界から外れている気がします。
前半にはセベリーノ神父が二コラと一緒に登場しますが、宗教家らしいことは何一つしない。神を信じさせた上に侯爵夫人による搾取の手伝いをしてるともとれるのです。また、後半では大きなカトリック教会で締め出しを食らってしまう元村人たち。パイプオルガンの音楽を盗んでしまったラザロ。本当のカトリックよいしょの作品だったら、これはないでしょう。
どうしても理解不能だったのが侯爵の息子タンクレディの存在。小作農詐欺には反対の意見だったし、後半での行動も理解できない。ラザロにだけは心を許すものの、謎が多い人物だった。しかし、ラザロの行動原理はすべてタンクレディが中心。彼を見つけなければ死ぬに死ねない!と、聖なる力を発揮したのも、彼がいたからこそなのだろう。犬に同じ名前をつけるほど犬好きということだけはわかる・・・
聖人とは対照的に最も人間的だったのがアントニア。生活力のある逞しさをも感じさせ、旧村人であるラザロに最も愛情を示したのも彼女だ。さらに憎むべき相手であるデ・ルーナに対しても高級なお菓子をそのまま与えている。歪んだ社会構造の中にあっても、ラザロやアントニアの人間的な優しさを感じさせてくれる作品でした。
与えること
ラザロの顔が一番良いんだけど、アントニアの純粋さとたくましさもよかった。変わらず優しいのはアントニア。
タンクレディの仕打ちには私もすごく傷ついてしまった。なぜ?騙して搾取しようとするほど、搾取されてしまうのに。
資本主義に放り出されたロシアや旧共産圏の人々とも重なった。もう農村には戻れないけど、夢に見るのはあの頃の暮らし。今ではオリーヴ1箱収穫して1ユーロ、小作人の頃と何も変わらない。
都市と農村の映像の質感や色が独特で、映画館で見られてよかった。
浅ましい社会
ラザロを通して見る人間は、実に醜く愚かであった。たまには親切になる時もあるが、それは稀である。そんな愚かな人間の作り出した社会システムなんだから、醜くて当たり前なのかもしれない。領主に搾取されていた小作人は、街に出ても資本家に搾取されて生きるしか方法はないのだ。そんな方法しか我々人類は作り出せないのだ。この作品は、優しく純粋無垢なラザロと、欲深く浅ましい私達の社会を比較している。フィルムが美しいだけに、恐ろしい。
大人の童話
朴訥として善良な正直者の物語。聖書に出てくる聖人の名だそうだ。
原題も「幸せなラザロ」。彼はあれで幸せだったのか?がずっと脳裏に付きまとう。あれで幸せだったとしたら彼はどれだけ愚鈍であろうか。いや本当に彼は何も嫌な思いもせずにいたのなら、幸せだったと言えるのじゃないか。
そして、自分のなかにどれほどの「ラザロ」がいるのだろうと自問する。
汚れがないのは善なのか?
世間になじまないのは悪なのか?
主役の、ドン臭いまでの、え?これ地なの?と思わせるような、ぼうっと突っ立ってこっちを見つめている姿が、その答えを求めているようだ。
ラザロの復活
狼に育てられた双子の兄弟「ロムルスとレムス」がモデルか。ローマ神話の軍神マルスが巫女のレアを孕ませた子だ。半人半神の媒介者。ラザロは人ならざる者である。
農村の伝統がひとたび都市の文明に適応すると、人はあっという間に変貌していく。
ラザロの復活(何年経ってもラザロは変わらない)を示し、ラザロの瞳を通して幸せも与える(線路脇から食材を見つける)が、「神」の声は到底人間に届かない。
音に誘われ教会を訪れたラザロ。都市型で排他的なシスターが彼を追い払うと、パイプオルガンの響き(神)はラザロを追って教会を捨て去る。
搾取やいじめは上から下へと綿々と続く。一番下のところで全てを受け入れるラザロを、市井の人々は「働け!」と容赦なく打つ。そのおぞましい様子をロムルスとレムスの双子を育てた狼が見守り、我々をじっと見据えるのだ。
ランチのお誘いに、なけなしの金で手土産まで買って出かける人々。強者による壮大なインチキに弱者が騙される象徴のようで、私の胸はザワザワした。
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