イメージの本のレビュー・感想・評価
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延々とピカソの絵を見せられたかのような、しかし凄いものを見た衝撃は残る
どう捉えればええんやろう。
のっけから何がしたいのかわからない。流れる映像は古今東西ありとあらゆる映画・映像のワンシーンを、時には逆光や色彩をどぎつい色に変え、紡いでいく。監督自らのナレーションで映像にセリフをかぶせる。しかし、その意図、その構図、それよりまずこの映画のテーマはなんだ?いったい何がしたいのかすらも分からなくなってくる。見てる映像と同じくらいに自分の頭も混乱する。ここまでくれば何かのアートだ。シュールで、わけのわからない、ピカソが作ったような作品だ。
その中で自分なりに考えた本作のテーマ。それは、
「資本主義への批判」
本作は暴力描写や戦争の描写が、何の脈絡もないのによく出てくる印象だ。しかも戦争を自然の摂理と表すると捉えれるセリフがあり、最初は戦争に対してなにか言いたいのかと感じた。だがどうも人が利益の追求のために動いている。利益の為には法すらも存在しないと思わせる描写もある。戦争もよく考えれば利益の追求からやし、上の者と下の者の差を描写している、社会主義に対しての批判は少ない感じを受ける。その断片的なものを自分なりに集め展開していくと、どうやら資本主義のこの世界を批判しているんやないだろうかと、自分は思った。
そういえば本作の監督:ジャン=リュック・ゴダールは一度商業映画と決別し、商業映画を作ることを止めている。アメリカ映画ばかり席捲している世界に対する批判の現れとのことだが、利益を追求することに対して批判的な立場であったと思う。そう考えれば、監督は資本主義に対して批判的であるのではないか?
でも、想像の域は出ないなぁ。どんなけ想像力をかきたて、なんとかしてこの足りない頭でこの映画を読み取ろうとしても、想像の域は出ないんじゃないか?そこにこの映画のタイトル。もしかしたら、もっと違う見方があったのか?ストーリーなんてない。道順たどる必要はない。つまり考えを指定していない。この映画は発想に対しては自由だ。どんな発想でもいい。もしかしたら何度も見ることでその都度違う視点に出会えるかもしれない。それを狙っているのか。それも想像の域を出ない。
だが一つだけ言える。
「こんな映像表現は見たことない」
ただただ思う。なんかすごいものを見ている。何かがわかればいいのだが、言葉にできない。その感触だけしっかり実感することができた。もう一度見たいかと言えば“もういいや”と思うが、もし見る機会があるのなら、もう一度考えて見てみたい。もっと考えれることがあるはずだ。そんな感じがする。そう思う時点で、この映像表現はすごいと思うのだ。
ゴダールはここから見ればわかるかも。
2018年。ジャン=リュック・ゴダール監督。言語批判、西洋批判、映画批判について、言語と言語過程、言語とイメージの対比、西洋中心主義とアラブの対比、映画作りの過程、表象の暴力、などのテーマを設定して、過去の作品のような性急さではなく、丁寧に表現されている。いつものように引用元はわからないが、それでも理解が可能になるようにできている。日本映画としては溝口健二「雨月物語」が引用されていただけだった気がする。これが公開されたものとしては最後の作品になってしまった。ユリイカの特集を読破した後に再見したので感慨もひとしお。追悼。
遺作だもの。
2022年に安楽死したゴダールの、結果として遺作。理解不能なるイメージの断片は、カンヌにして「棚上げなる名誉賞」的に対応。おおまかには、ゴダールが60年代後期に毛沢東思想や、原理主義的なマルクス主義思想から迷い込んだ「達成不能な理想郷を実現するために不断の革命を続ける」という、自家中毒にも似た癌化した純粋な現実否定主義の迷路を、フィルムに焼き付けるとこうなる。という作品だと想像する。いつかは観なければならないと思っていたので、Amazon配信に感謝。
チンプンカンプン
ゴダールさんがヌーベルバーグの鬼才であることに異論はありませんが物言う映画監督、少々面倒なお方という印象です、以前にも映画史を纏めていますが本作は珍しい中東映画まで加えた数多の作品をコラージュして自問自答を纏めたエッセイ集、91才でスイスの病院で尊厳死を選択されたとか、本作はいわば遺言に近いものなのでしょう。
本の体裁にならったのでしょう5つの章と番外編で構成されています
1.リメイク:映像で韻を踏むということ(約10分)
2.ペテルブルグ夜話:戦争論(約9分)
3.線路の間の花々は:列車の出てくる作品群(約12分)
4.法の精神:法のあり方とは(約15分)
5.中央地帯:男女の愛(約3分)
6.幸福のアラビア(約33分)
アメリカ嫌いや革命、移民の多いイスラム圏への関心など如何にも典型的なフランスの老人のぼやき節ということは伝わりますがナレーションは説教調で耳障り、映像もピントをぼかしたり色彩を誇張したりいじりまくっていました。内容となると、まさに映画マニア検定の超難問のような引用作品群、そのどこを切り取るか、ましてその巧拙など浅学の身には評価できるはずがありませんよ、ほとんどチンプンカンプン。
世の中には凄い人がいるもので関西大学の映画研究者:堀 潤之氏の解説ブログに事細かく分析されていましたから、関心のある方は「ゴダールのイメージの本 覚書」でググってみたら如何でしょう。
ノーベル賞が授けられんことを
観に来てしまった。いつものツンデレな動画があるだけだとわかっているのに。
眠ってしまった。そうなるとわかっていて、エナジードリンクも飲んだのに。
「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」のジャン=リュック・ゴダール、とキャプションするのはやめにしてはどうか、と言われ続けてはや幾年。
「気狂いピエロ」ではテレビで放映できず、「ピエロ・ル・フー」と原題カタカナになっていたのが30年前?
ミスチルが「キチガイ」が自主規制で使えず「キグルイピエロ」って歌ってたのは25年前?
ゴダールはゴダールである、と言われたのもそのころだったかな?
この作品で パルムドール・スペシャルを受賞したのが一年前。
ゴダールが受賞したら、ノーベル賞もロックだなって思ってたのに、カズオ・イシグロだったのが半年前。
いつまでもお元気でいてほしいと、心から願う。そしてノーベル賞が授けられんことを。
ゴダールについてはほとんど知らない
あれでしょ?たしかフランスの国際空港・・・それはド・ゴールですから!くらいに知らない。とにかくコラージュのオンパレード。どこを切ってもコラージュなのです。ところが最後にアラブやイスラム教というテーマになってからは、ちょっとだけストーリーがあった。石油を産出しないアラビア半島の小国ドーファ。もしやドーファの悲劇?などと思っていたら、なんと架空の国。なんだかやられてしまいました。
戦争、民族、宗教、哲学とか様々な語られた言葉をも織り交ぜ、映画のワンシーンを見て何を言いたいのかを探ってみようと・・・しかし、わからない。第1章のリメイクだけでも難解すぎるのです。眠気をこらえ、ようやく資本主義の構造や愛と隷属、革命、テロ。見えないものが見えてきそうで、まとまらない。
途中、気になる言葉がありました。対位法と和声法。独立した音を組み合わせて使い、音が和音を奏でる手法、そして和音を中心にしてメロディを組みたてる手法。この手法がコラージュの方法そのものなのだと思ってもみましたが、いかんせん、もう最終章のベン・カデムの物語になってしまいました。
そんな無差別的な配列の中にも男と女のワンシーンが必ず入ってたような印象があります。結局は愛がないと世の中は成り立たないということですよね。希望という夢を追い求めるにも愛が必要。最後に残るのは愛だけかもしれません。
【ジャン=リュック・ゴダール御大が”アートの衣を纏って”石礫のように、世界に叩きつけた強烈な反戦メッセージ。】
ー資料には”84分のアート体験”とあるが、それどころではない。
今作は、アートの名を借りたジャン=リュック・ゴダール御大が強烈な怒りを込めて”アーカイヴとモラルの狭間”を行き来しつつも発信した
”愚かなる戦争、理不尽な暴力、不寛容な思想”に対する強烈なメッセージである。-
5章から構成されるとあるが、ほぼ全編でコラージュ風に挿入される映像は”愚かなる戦争、理不尽な暴力、不寛容な思想”である。
84分間、観る側はその”石礫のような映像”を只管耐えながら観させられるのである。(場合によっては、繰り返し・・、繰り返し・・。)
1.リメイク
2.ペテルブルク夜話
3.線路の間の花々は・・
4.法の精神
の中に挿入される映像の数々・・
”アルジャジーラの映像”、”ローザ・ルクセンブルクの墓の映像”、”ソドムの市”、”イワン雷帝”、”日本裁判”、”道”・・・
只、最後の”5.中央地帯”では、更に環境問題、貧困問題も断片的に取り上げられている。
<ジャン=リュック・ゴダール御大、88歳。
これだけの、アヴァンギャルドな作品を世に送り出してくるとは・・。
まだまだ、健在である。
怒りを押し殺したような、しわがれた低いトーンの”ジャン=リュック・ゴダール自らのナレーション”も印象的な作品である。>
凄いものを観た、という不明な感覚
私は、ジャン=リュック・ゴダールを知らない。
名前と略歴くらいしか知らない。それくらいしか知らないので、正直何回か意識が吹っ飛んだ。寝不足の朝上映だったので。言い訳だ。
それでもって私はそんなシネフィルじゃないので、コラージュされた映像当てもできない。(「ソドムの市」は分かった)。厳しい。
しかし、あれだけの映像をあんなに意識的に繋ぎ言葉を紡ぐ、その行為自体が崇高な芸術なんだろう、と思って観ていた。
多分私にもっと知識と教養があれば、この映画に含有されたものをがっつりと受け止められたのだろうな、と思うと自分がつくづく残念である。
言葉自体は、映像の繋ぎ方に比べればストレートだ。なんだか段々怒りが増しているように思えたのは勘違いでしょうか。単に語りが増えたからなのか。
いや、なんだか、すごいもの観ちゃったな、でも全く理解とか咀嚼に行き着かない自分悔しすぎだな、というか。お前知識ある振りしてんじゃねえよ的な。いやそんなことは言ってないんだろうけど。割と私的なものに思えたし。
音楽が頭から離れません。
「イメージの本」について
映画「イメージの本」について
映像で、語る才能がない部分は、ゴタールの独白で、表現しか出来ないじゃない?
ゴダールって、。
引用の部分は、正論を云っているから、可視化出来ないのかな?
イメージの本は、引用の限界を示したのでは?
新作ゴダールがインタビューで語った「シナリオ」に期待。今の未来が予測出来ない世界で、どうシナリオを綴るのか?
イメージの本 コレクターズ・エディション [Blu-ray]
ゴダール本人はシレッとした顔で今頃パフェ食ってるよ。
ジャン=リュック・ゴダール!!
名前は知ってるけど、今も生きてて現役ってことは知らなかった(笑)。
『勝手にしやがれ』!!
セックス・ピストルズのアルバムは高校時代に聴きまくったし、カラオケで沢田研二は歌いまくったけど、映画は観たことない。
「ゴダールも観たことないのに映画ファンだって?おこがましいね!なんていうシネフィル気取りカッコ悪いぜ!!なんていう、ゴダール観たことないコンプレックス」も、随分前に卒業したつもり。
分不相応にゴダールをありがたがっても秒でボロが出ちゃうだろうし、ゴダール弱者なのを自虐的にイジるのもみっともない気がする。
平身低頭で行くか?ハナっから何故か喧嘩腰で行くか?
ぐだぐだ考えるよりも先に、とりあえず観に行ってきた。
なるほど、全然わけわからん。
わけわからん映画はわけわからんなりに、自分の解釈で咀嚼して、「これは自分にとってこういう映画であった」という血肉になれば、それはそれで価値ある映画体験だと常々考えて映画を観てるけど、そういうスタンスも寄せ付けない感じのわけのわからなさだった。
劇映画じゃないから、とか、政治や映画の知識教養がないから、とかでもないわけのわからなさだったような気もする。
「難解だからそれはたぶん高尚なやつなのだ」なんて感じもしなかったし、
「映画なんて娯楽なんだから観客を楽しませてナンボ。伝わらない映画なら、それにどんな権威があっても駄作は駄作だ。」なんていうのも、それは観客側の嗜好のいち形態に過ぎないから、観る価値がないとも思わない。実際観て良かったと思ったし。
そもそも本作について僕は「難解」とは思わない。「難解」っていうのは「ちゃんと正解があって、そこに至るのが難しい」って意味だと思ってるんだけど、ゴダールが本作を通して観客に届けたい正解があったのかどうか、それ自体がわけわかんなかった。
僕にとっての「わけのわからん」監督は3人いて、それはスタンリー・キューブリックとアレハンドロ・ホドロフスキーと、大林宣彦だ。
その3人のうち「難解だからわけわからん」のはスタンリー・キューブリックで、例えば『2001年宇宙の旅』には、観客がどう解釈しようが自由だけども、ちゃんとした正解もある。
アレハンドロ・ホドロフスキーと大林宣彦は「ブッ飛んでるからわけわからん」から好き。ホドロフスキーや大林宣彦と一緒に飲みに行きたいか?っていったらかなりイヤだけど(笑)、こっそり尾行したりして、どんな生活してるのか、どんな人間なのかは覗いてみたい。
でもなんだか、このゴダールという人間には興味が湧かなかった。
映画を観ていて、スクリーンの向こう側から、その映画の作り手と「目が合ったな」と感じる瞬間があって、それが嬉しくて僕は映画を観てるんだと思う。それがどんな映画でも、「ホラ!ここ見て!オレの好きなことやオレが伝えたいこういうことを感じてみて!!」っていう視線を感じることがある。その視線が卑屈だったり上から目線だったり露悪趣味だったり暑苦し過ぎるときもあるし、その視線が自分じゃない層に向けられてるなって思うときもある。
僕は本作から、ゴダールの視線そのものを感じなかった。作り手としての志の高い低いとか、演出や編集の上手い下手とか、そういう話じゃなくて、なんていうか高名な仏師が山奥で仏像彫ってるような、そんな印象。「なんか怒ってんな、なんか世を憂いてるな」っていう感じはするけど、それをメッセージとして伝えようとする意図を感じなかった。「難解ありき」でわざと映画を難しくして頭良く見せようなんて意図も、もちろん感じない。だから別にヤな感じもしない。
逆に言うと、この映画を観た観客の声も、きっとゴダールの耳には届かない。「つまらなかった」という映画見の声も、エライ評論家の賛辞の声も、この作品が興行収入的にどんな成績なのかも、その成績がゴダールのネームバリューによるものなのか作品の純粋な質によるものなのかも、おそらくゴダールの右耳から入っても、左耳から吹き抜けてく。本人はシレッとした顔で今頃パフェ食ってるよ。カッコいいなぁ。
ただこの映画を観て、誰がどんなふうに感じて何を考えるのかはとても興味がある。映画サイトのレビュー欄読むのも楽しい。そのいろいろを読んで共通していたのは、
『イメージの本』がどういう映画であったか?ということよりも、その人その人がどういう姿勢でゴダール作品やこの映画を観ているか?
ということが大なり小なり書いてあったことだ。つまり、
ジャン=リュック・ゴダールがどういう監督か?ということよりも、その人その人がどういう姿勢の映画見か?
ということが、もんのすごくクッキリ現れる作品だったんだなということだ。
実際この記事に僕が書けることも、僕がどういう姿勢で映画を観ているかという話に過ぎない。これを読んでくれた人が「あーウシダは全然ダメだな」と思うかもしれないし、「あー、確かにそういう観方もあるかもな」と思ってくれる人もいるかもしれない。
でもゴダール本人は、もちろんそんなこと1ミクロンも知ることなく、たぶんどっかでパフェ食ってるんだろうな。
なんだかなー
美しい芸術的映像も含むイメージの本かと思って観に行ったら、昔のモノクロ映画の映像と変に色付けした映像と意味の理解しづらい詩ばかりで、しかも監督自らの朗読の音が雑で、我慢我慢で最後までたどり着きました。
ビデオなら10分でスルーしたと思います。
「物言わぬ田舎娘にこそ用心すべきだろう」
現在のポジションならば“映像作家”と称されるであろう、ジャン=リュック・ゴダール御大の作品であり、自分のようなユルユルで低思考の人間がレビューすべきことでないのは充分自覚しているので、内容云々はスルーする。勿論、政治的にも表現方法論も、自分より当然雄弁に語れる人が星の数ほどいることも承知している。自分が今作品を観て、かなりの内省点は、数え切れない程の意識の混濁と欠如である。所謂“寝落ち”だ。それはホンの2,3秒なのだが、まるでレコードの針飛びのようにぽっかりと抜け落ちていているのだが、そもそも構成がコラージュであり、物語というより監督の文脈を繫げるDJミックスの運びなので、穴自体、意識しないでも良いのかも知れない。ショッキング且つ象徴的な映像群と、難解で思わせ振りな意味深い言葉。ゴダールワールドを全身で浴びるという一種の苦行が、また言葉に出来ない位のリラクゼーションをももたらすのは、自分にとってなんと皮肉なことだろうと、感慨深いモノがある。イメージを再構築し、観客にぶつけるという行為は、人間だからこそ成しえる血の巡りの様なのかも知れない。
「悲しみ方が足りないから世界が良くならない」なんて言葉、自分ではトップクラスのパンチラインであった。
もう一回
一度観ただけでこれをどうこうは、できないだろう。
公開最終日に観に行ったことが悔やまれる。
他の映画とはプラットフォームが違う、映像と音でできたコラージュのような作品。セリフと短い映像、単純な色と音でできた塊。
観る者に歩み寄りや忍耐を求めるようだが、何故か興味をそそられる。
映像よりも言葉が強い、と感じた。映像はスパイスで、言葉に主張がある。
しかし言葉それ自体ではやはり弱く、それらが補完し合い・絡み合うことで、脳の異なる部位を同時に刺激されるような快感が生まれる。
ゴダールの他の作品にもポエトリー・リーディングのようなシーンは多いが、それを煮詰めるとこのようになるのだろうか。
印象的だった言葉。
「言葉は言葉足り得ない」
「殺し合いが生物の本分、戦争はそれを思い出させる神聖な行為」
「過去が不変であり、…不変であるように、希望が必ずある(?)」
繰り返す映像をもう一度観たかった。
動くコラージュ
正直、内容を理解したかと問われたら、全くもって理解していないと言っていい。
ともあれ、ゴダール独特のシーンのつなぎ方は、カタチとしてとらえることができないモチーフを撮影する時の常套と解釈している。
つまり影像の全ては捉えたい物の落とす影であり、その外周風景だだからしてワンシーンワンシーンを細かく観察してもテーマを理解するに効果的とは思えず、ゆえに漠然と全体を眺め、写り込んでいない本体(テーマ)を連想しながら鑑賞した。
その独自の解釈による感想が以下。
言語は情報ではなく、言語こそがイメージであり
このイメージが芸術へ昇華した時、新たな時代を切り開く言語となる。
映像芸術が今後、進むべき方向性と課題を提示しているのか、なぁ? と。
かなり強引だが。
この手ごわさが魅力にも変わるゴダールよ、あっぱれ。
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