メアリーの総てのレビュー・感想・評価
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フランケンシュタインが女性が書いた作品だとは知らなかった。 ので、...
フランケンシュタインが女性が書いた作品だとは知らなかった。
ので、とても興味深く観た。
エルファニングが、抑えた演技で上品な作品になった。
フランケンシュタインの映画観てみたい、と思って探したらドラマがあったから観た。
犬の実験辺りから、もうアウト!生理的に無理で辞めた。( TДT)
ポリドリ、、
小説「フランケンシュタイン」の生みの親であるメアリー・ゴドウィンが、その執筆に取りかかる前後の話で、パーシーとの出会い、駆け落ち、義妹クレアとの三人暮らし、夜逃げ、娘の死、放蕩な男爵宅への居候など、さまざまな経験が彼女を襲いますが、時間としては、ほんの一、二年というのが、驚きです。
階級制度や性差別の厳しかった時代に、アイデンティティを失わずに生きた女性だからこそ、不朽の名作を生み出せたのだな、と感心しました。エル・ファニングの、可憐な容姿でありながら芯の強さを感じさせる演技も、とても良かったです。
しかし、今作の登場人物で一番、気持ちが惹かれたのは、バイロンの主治医であるポリドリでした。
なんて、救われない男だったのか、、
「フランケンシュタイン」が創出された哀しき背景を見事な装飾で描き出す
「フランケンシュタイン」を生み出したのが、女性作家(メアリー・シェリー:エル・ファニング役)だったとは知らなかったため、興味深く鑑賞。
魅力的な英国男優達の姿、(個人的にはダグラス・ブースも勿論魅力があるのだが、トム・スターリッジが演じたバイロン卿の狂気が印象的であった)と彼らが纏う時代衣装がとても良い。
物語もジェットコースターのようなスピードで進み(そのあおりで、粗い部分あり)、飽くことが無い。
2時間、たっぷり魅入られた作品でした。
<2019年1月3日 旅先のシネコンで鑑賞>
甘美なまでの不幸
美しいほどの不幸。
古い白黒映画で「切腹」というのを思い出しました。美男美女が家族となり、完璧な幸せが待ち受ける道を進むと思いきや、深い絶望へと進んでいくものです。
どう見ても甘いショートケーキに見える、画ビョウの入った岩塩。
鋭利な苦味と包み込むような塩気。
Elle Fanningほどのきれいな人が主演しなければ観なかった作品ですが、こういう暗い作品を久しぶりに観賞するいい機会となりました。
結局ダメンズ?
メアリーの総てとの題目だが、幾ら何でも総てではないだろう。
結局、若気の至りでダメンズと関わりすぎたという事なのだろうと思う。
「フランケンシュタイン」という世界で最も有名なマッド・サイエンティストと、その怪物というこれまた最も有名なクリーチャーを生み出したのが、18歳の人妻、しかも元妻の自殺によって成り立ての人妻であったというところがドラマの核心である。
美しい背景と美しい女優によるゴシック的なホラーを少しは期待したが、やはりそうはならなかった。
それにしても、彼女の最も良質の理解者が父親であり、それを当人が全く理解できなかったところに、改めて哀しみを覚えてしまった。
エル・ファニング
名前だけは誰もが知っている『フランケンシュタイン』。
だが、その小説について詳しく知っている人は、どれだけいるだろう。
この映画は、小説『フランケンシュタイン』の著者、メアリー・シェリーの、後に夫となる詩人パーシー・シェリーとの出会い(正確にはその少し前)から、度重なる苦難の末作品を書き上げ、出版するまでを描いた実話。
気になってあとで調べてみると、時系列を含め史実とは若干異なるようだ。
ろくでもない男と恋に落ち、駆け落ちまでした16歳のメアリーだが、幸せは長くは続かなかった。
深い悲しみと絶望の中で書き上げた『フランケンシュタイン』を出版社に持ち込むが、そのあまりにも奇抜な内容に、出版社はどこも取り合ってくれない。
そればかりか、18かそこらの小娘に、こんな本が書けるわけがないとばかりに、本人が書いたことさえも信じてもらえない。
そんな中、匿名を条件にようやく出版に漕ぎ着け、後世に名を残す女流作家が誕生した。
ざっとこんなお話。
映像も音楽もとても丁寧で素晴らしいが、なんと言ってもメアリー役のエル・ファニングが最高だ。
撮影時の年齢が、ここで描かれてるメアリーとほぼ同じだとは言え、まだ少女の面影が残る冒頭の場面から、辛さを乗り越え大人の女に変貌していく様がお見事。
彼女無しではこの作品は成り立たなかったと言っても、決して過言ではないだろう。
まだ若いのに、この演技力。
今後が楽しみな女優さんが、また1人増えた。
それにしても、意外なほど上映する劇場が少ないんだが、ちゃんと宣伝したら、観たいと思う人は多いと思うんだけどな。
勿体ないな。
この作品を上映してくれたルミエール秋田に感謝。
哀しくも美しい
81席シアターを独占鑑賞。エルファ二ングが創り出す華麗で美しい空間に終始引き込まれた。不幸になるほど才能が開花していくメアリーを見事に演じている。不朽の名作が誕生する歴史的真実を存分に堪能した。
2019-49
主演女優のエル・ファニングに注目!
怪物フランケンシュタインの物語を創作したイギリス女性作家メアリー・シェリーの七転び八起きのような半生を描いた作品。そもそも女性作家による創作とは知らなかったので勉強になりました。男を見る目の無さは玉にキズですが、開明的な亡母の血筋を引いた聡明さと、当時のスター詩人バイロン卿にも物怖じしない彼女の胆力があの名作を生んだのでしょうか。ところで主役メアリー・シェリー役を演じたエル・ファニングは妙な魅力を湛えた女優だと思います。一昨年公開された「パーティで女の子に話しかけるには」は、個人的には苦手な作品だったのですが、その中で宇宙人役を演じた彼女は何か現実から少し遊離したような役どころで興味を惹きました。本作での彼女も、何か夢見る少女のような役柄でしたので、これと少し重なるところがあったように感じました。
良い作品だけどストーリー展開が遅い…❗
星🌟🌟🌟 内容的には良い作品だと思うけどストーリー展開が遅くて中盤までちょっと退屈でした❗後半から展開が早くなって面白くなったのですが…主役のエル・ファニングや夫役のダグラス・ブースなど配役はイケメンや美人を揃えて映像美も凄く綺麗なのに脚本がもうちょっとしっかりしていれば…凄くいい作品になったのに残念です😢 フランケン・シュタインの誕生した経緯は興味があったのでもうちょっと感動したかったなぁ😢
『私の選択が私を造った』
フランケンシュタインや吸血鬼、今作には関係無いが狼男等、いわゆる西洋型モンスターが活躍する怪奇譚が産まれる素地と歴史背景、その時生きていた人達の心情等をギュッと濃縮し、整理整頓された作品である。なので、ある程度ご都合主義的展開や、シーンの過剰で都合の良い登場方法等がドラマティックに色をつけているのは今風なのかもしれない。女性が制作の多くに携っているという情報もあるので、そういう意味では同じ同性に親しみやすいシークエンスで構築されているのだろう。その辺りの虚構とリアルのバランスは、なかなか観客の好みに拠る点が大きいので難しい問題だ。
ストーリーそのものは、“物語”を創造する人達の人生を描くという、NHKの朝ドラ的なプロットだと思う。実際、著書“フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス”はEテレの“100分で名著”に題材として放映され、そこで初めて18歳の天才少女が世界中で有名になった稀代の怪獣を創造したことを知ることになった程、キャラクターと制作者の結びつきが希薄であった。
だからこそ、この意外性な事実を改めてドラマとして作り上げたことは当然といえば当然狙うものであり、格好の“ネタ”であろう。
殆どの今の現状の世論の混沌さを落とし込まれている題材を、どう“料理”していくかという中で、今作品は一定の評価を得た内容だと感じる。
とにかく、キャラの濃い登場人物の多さは、もうそれだけで平々凡々と人生をやり過ごす自分達“凡人”とは違う世界観なのだから、これで何も産み出さない方がおかしいと思わせる程の仕組まれた様な人生である。一体どれほどの偶然がまるでダイヤル式金庫の様に上手く合致したらこんな画が描かれるのだろうかと驚愕すら覚える。
そしてこれも又仕組まれた様な“吸血鬼”を描いた作者との親交も又ドラマに拍車を掛ける余りにも出来すぎな設定である。
人生そのものがまるで映画のような題材を、コンパクトに仕上げると今作になる。決してそれは悪くはない。今作も又一つの“正解”なのだから。
フランケンシュタインを改めて読んでみたい。
今までエル・ファニングはかわいいという印象しかなかったけど、かわいいだけじゃなくて、目力とか表情に凄味が増しているように思う。
パートナーになったのは期待外れなろくでもない男だったけど、その人を選んで悲しいことがあって作品が誕生して、パートナーがその男だったから自分の作品とすることができて。何が幸いするかわからない。その男と出会ったことは運命なんだろうな。
孤独と絶望が生んだ怪物と闘った少女
監督さん、サウジの女性なんですね。あらゆる点で納得。女性が権利を主張出来ない、生き辛いイスラムの女性の心の叫び、って側面もあったんですね。綺麗で詩的な台詞が良かったのと、救いのあるラストでホッとした。
怪物として生まれる者は居ない。孤独と絶望が怪物を創り出す。メアリーは最後に救われ、作中のフランケンシュタインは絶望のうちに北海に消える。最後のナレーションの意図は、メアリー・シェリーになった彼女の心の中の怪物が消えた事の象徴。深いとは思うが、何を指しての事なのかが、ちょっぴり難解です。
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1/21 追記
ウーマンリブ。今は聞かなくなった言葉ですが映画の主題を考える時、この言葉が一番しっくり来るかなぁ。
バイロン卿は重要な役割を担っていました。メアリーとの別れのやり取りの場面。バイロン卿はメアリーの両目を隠し、自らも目隠し。そして目隠しした手を動かしながら、こういいます。
Always see
字幕は「視野を広く」でしたが、ここはそのまま「常に目を開いて」だと思う。我々は時に盲となる。何かに目隠しをされる。君の目を塞ぐものは何かな? と言う辛辣な指摘であり、それと闘えと言う意味もあったか。
バイロンは酒欲に、メアリーはパーシーへの愛が目隠しに相当しているのだと思う。バイロン卿は女性の能力に疑義を持っています。女は愛憎から逃れられない、と考えていたのでしょう。
メアリーは自らの愛と憎悪が生み出した、孤独と絶望のモンスターを物語にする事で、全てを超越する。いや、現実がどうだったかは知らないが。
バイロン卿の「天井桟敷の吟遊詩人」感が、イカしてた。俺は、あんな人生イヤだし、友達としてもお断りだが、あのいかれ具合は好き。
赤ちゃんと怪物は合わせ鏡
「フランケンシュタインの怪物」を書いたのは僅か18歳の女性だった。
本作は1人の作家、そして作品が生まれるプロセスを丹念に追う。
いわゆる「作家もの」のフォーマットから大きく外れることはない。若き恋と情熱、その後の苦難と不幸。その果てに傑作は描かれた。主人公メアリー・シェリーを演じるのはエル・ファニング。この、作品誕生までの波乱を彼女が演じるのは見応えたっぷり。まさに、いまが旬の女優だろう。
不幸の闇がモンスターを生んだ。しかし、そのモンスターは、実は赤ん坊のまま命を落としたメアリーの子供だ。
早逝したために愛することが出来なかった我が子の代わりに、メアリーは、決して愛されることがないモンスターを生んだのだ。そう、我が子とモンスターは合わせ鏡のように、反転している存在だ。だから我が子は死んで死体となり、モンスターは「死体から生まれた」のだ。
19世紀イギリスの街並み、文豪の館、そして登場人物の服装などは観ていて楽しい。何より、文芸趣味の人にはランプの灯りと羽根ペンがたまらないはずである。
史実の改変ぶりが受け入れられなかった
映画が史実通りやれるわけがないということは、勿論理解している。
メアリーの種違いの姉がいないことになっていたり、第三子のクララが第一子にされていたり、ガルヴァーニ電流のショーを実際にみたことにしているが、これは尺や演出の都合であると納得いく。むしろガルヴァーニ電流のエピソードは史実だと地味だから、実際に見たという演出はむしろ良かったとさえ思う。
事実の改変も、物語として面白かったら受け入れられた。
だが、押さえておくべき「ディオダティ荘の怪奇談義」の改変、これがダメだった。歴史好きの人ならば「絶対対押さえておくべきエピソード」というものがあると思われる。この映画はその「絶対押さえておくべきこと」を、あろうことか一部省略・改変した。そのためこの映画の評価が一気に落ちた。
ディオダディ荘の怪奇談義と呼ばれる一夜はフランケンシュタインと、今の吸血鬼の原型ができた歴史的一夜。当然いろんな本で紹介されるしこの出来事自体も面白いから、特に海外では度々映画や劇のモチーフにされている。
その根幹たる出来事を省略・改変したのは、史実ファンからすれば受け入れ難い。
期待しすぎていたのと史実の大幅な改変ぶりがどうしても受け入れられず、低評価の原因となった。
私は吸血鬼からこの出来事を知り某所で吸血鬼解説をしていることもあって、ディオダティ荘の怪奇談義、特にポリドリの吸血鬼には思い入れがある。ポリドリが最初に書こうとしたのは別の物語なのに、ポリドリが吸血鬼を書くといってバイロンが嘲笑するという改変は到底受け入れられなかった。またパーシーがポリドリに嫉妬して突っかかるシーンもいらなかった。実際のポリドリは、バイロンと喧嘩して解雇されたあとに、バイロンへの恨みからバイロンを揶揄するために吸血鬼を書きだしたというのが本当である。またポリドリはお調子者でミーハー、そしてパーシーがいたく気に入らなかった。むしろポリドリがなにかとパーシーに突っかかるものだから、バイロンが止めたほど。それを、メアリーのストーリーに無関係なところで、改変してまで描写する必要がどこにあったのかが疑問。
映画ではメアリーの悲劇性ばかりを取り上げ、いかにもメアリーの独力で小説フランケンシュタインを作り上げたかのように描写しているのもいただけない。そのためにバイロンや夫のパーシーのろくでなしな面しか描写しなかったことに不満が残る。確かに二人は映画以上のろくでなしだが、メアリーには文学的影響も大いに与えている。実際は、フランケンシュタインの執筆を促したのはパーシーからであるし、文章の書き方から校正まで行っている。そして出版社探しもパーシーが実際行っている。断られたのも2社だけ。それをパーシーが内容にケチをつけ、それに怒ったメアリーが自分で出版社を探しにいくことになっている。また何社からも断られたかのような描写は過剰で嫌らしくさえ思った。
ポリドリもメアリーと同じく哀れな弱者に仕立て上げていたのも疑問だ。確かにポリドリの吸血鬼はバイロン作ということで出版されて、正当な報酬も貰えず盗作者と言われたもの事実。だけどポリドリが吸血鬼を作ったのはバイロンの恨みからであり、内容もバイロンの作品を明らかに剽窃している。ポリドリも「剽窃ではなく、アイデアを借用した」と弁明している。だから盗作者呼ばわりされるのも無理はない。そもそもこの映画はメアリーが主役であるのだから、ポリドリの描写はほとんど要らなかった。実際、なくてもストーリーに大きな支障はない。史実通りに描写するならいざしらず、改変したエピソードを入れる必要性がどこにあったのだろうか。それよりはメアリーがフランケンシュタインを作るためのヒントを得ていく出来事を入れていく方が先決だっただろう。
例えば映画では妹クレアが「雨続きで、バイロンの詩の筆写ばかりで退屈だ」というシーンがあったが、そこをなぜメアリーにしなかったのか。史実ではメアリーはバイロンの詩「プロメテウス」を清書していたものと考えられている。小説「フランケンシュタイン」の副題は「現代のプロメテウス」。実際、バイロンの詩「プロメテウス」のパロディという研究もある。こうしたことを描くことができたはずだ。フランケンシュタインの化け物は死体をつぎはぎして作られた存在だが、実際の小説「フランケンシュタイン」もいろんな名作からアイデアを借用している。だからこそメアリーは過小評価されていた時代もあった。バイロンやパーシーの詩、父ゴドウィンの小説や亡き母が史上初めて提唱したフェミニズム思想に関する著書など、様々な作品からヒントを得て「つぎはぎ」した作品。だというのにメアリーが独力で作り、独力で出版社にこぎつけた描写したのは非常に残念。
映画最後も盛り上がりにかけた。これは劇中のパーシーが何もしていないのが原因。ここはメアリーに迷惑かけまくったから、せめて罪滅ぼしとしてパーシーが妻の「フランケンシュタイン」を出版するように、裏から動いていたということにでもしていたほうがまだ盛り上がっていたはずだ。実際、パーシーが色々助力しているわけだし。
監督のインタビューなんかも見てみると、この映画は監督や脚本家のイデオロギーに満ちた作品だと感じた。女性(+ポリドリのような弱者)が虐げられているということを訴えたいがために、メアリー・シェリーを道具にしたようにしか思えなかった。メアリー・シェリーの功績を過剰に演出し、バイロンやパーシーの功績を演出しなかったことに大いに不満が残った。
自分の中から出てくる言葉を信頼する、孤独を哀れまずに受け止める事。...
自分の中から出てくる言葉を信頼する、孤独を哀れまずに受け止める事。
メアリーの生き方にそういった強さを感じて、後半にそういう事かとはっと我に返った。
過酷な現実から生まれた物語こそが共感を得て、なんとも皮肉だが、実際に孤独や悲しみを感じる事が創作活動に深みを与えたり、共感を呼ぶ訳だと実感した。
怪物に共感できる理由。
「フランケンシュタイン」の作者メアリー・シェリーの物語。メアリーの美しさ、強さに見惚れました。怪物に共感できる理由がわかった気がします。しかしメアリーは確かに沢山辛い目にあったけど、一番気の毒なのはパーシーの奥さんと娘な気もしちゃいました…
ポリドリ役のベン・ハーディは観るだけで癒される…
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