「怪物を作り出す人間の心」メアリーの総て R41さんの映画レビュー(感想・評価)
怪物を作り出す人間の心
まさかまさかの作品に驚いてしまった。
相変わらず事前情報なしで見ていたが、まさかこんな物語だとは思ってもみなかった。
しかし、秀逸な作品だった。
当時の情勢 この「世の中」というものは人間性というのか思想というのか、または善悪というのか、時代時代の価値観が明確で面白い。
原題名の「メアリーシェリー」
そもそも事前情報など知られていることを前提にしている。
「すべて」を「総て」とした意味 日常的なのと文語的なニュアンスを仕込んだのだろうか?
邦画「ゆきてかへらぬ」のような詩とか言葉やその深い意味が中心になって物語が進む。
女性がその言葉に感じた理想
しかし、男はそれを現実逃避や遊び、または都合のいい解釈を持って自分を正当化していたように感じた。
口先ではいい言葉を連ねて女性を惑わしながら、お金にルーズでだらしない生活を送る。
その根源にあったのが「売れない」事実だろう。
メアリーは理想と現実という言葉を遣ったが、身一つで駆け落ちした顛末がクララを死なせてしまう。
ほんの数日間だけ新婚のような生活を楽しみ、あとはみすぼらしい生活になる。
(ある意味で)真面目の働こうとはせず、聞こえのいい言葉を並べ立てて得意げになる。
「君には責任がないとでもいうのか」
このシェリーの言葉は日本人的には男の言葉ではないが、それにもメアリーは真正面から答えた。
「ゆきてかえらぬ」は、この言葉というものの意味や概念と遣い方を巧みに操ろうとする中村中也達と、感情を上手く言葉にするのができない主人公が対照的で面白かったが、この作品は、言葉というものは日本的に無力でただの道しるべに過ぎず、その言葉を経験によって「自分の声」にすることで初めて力が宿り、それが「フランケンシュタイン」を生み出したという壮大なストーリーとなっていた。
この怪物誕生と、怪物が感じた理不尽さ、そして怪物に対する共感を持った多くの人々がいた。
虐げられるということ。
怪物とはまさに一人一人の人間で、親ガチャという言葉があるように望んで生まれてきたわけではない。
それなのに社会による弾圧や虐げられることなどが多く、生きていくことさえままならない。
このひとりひとり、ここではメアリーが感じた一つ一つのことが悲しみ、苦悩、怒りなどの感情を伴った怪物を作り出した。
コッポラ監督のフランケンシュタイン 「愛もないのに、なぜ創った」というコピーを思い出した。
人間のいい部分だけをつぎはぎすれば、理想的な人間が作れるのではないかという発想
まさに昨今のDNA
さて、
このフランケンシュタインの背景をこの物語が描いている。
登場人物たちの言葉に感じる「愛」の概念
昭和時代の歌詞に多用された愛と恋の混同
当時のイギリスも、日本と同じような感じだったのだろうか?
また、「自由」の概念
都合が悪くなれば自由主義者で済ませるシェリー
メアリーは彼の言葉の奥に隠された偽善を知り、失意のどん底に落ちた。
感情に溺れることと魂の衝動とはいったい何が違うのだろうか?
これは体験しなけば難しいが、そのうち体験する。
しかし若干16歳のメアリーにはその違いはわからなかったのだろう。
また、
メアリーの父の言葉は、この物語の中で非常に重要な役割を果たしていた。
「自分の娘を捨ててしまう男だ」
「メアリーのは幸せになって欲しい」
最後にメアリーが大作を書けたのも、父が「他人の思想や言葉を振り払え。自分の声を探せ」と父が言ったことを思い出し、彼女自身が母から「受け継いだのは魂のの炎」と明言したからだろう。
物語は、シェリーは匿名で出版された「フランケンシュタイン」を書いたのは妻のメアリーだと正直に打ち明けたことでハッピーエンドが確定した。
しかし、
ラストシーンのナレーションでは、メアリー・シェリーが「再び女児を出産した」ことが語られているが、映像では彼女が手を引いて歩いているのは男児であり、この子は実際には彼女の息子 パーシー・フローレンス・シェリー であると考えられる。
この意味はわからなかった。
事実と映画としての象徴なのだろうか???
ただ、
「自分が作り出した怪物に喰われてしまってはいけない」というセリフは良かった。
メアリーが感じた様々な絶望
それはまさにフランケンシュタインであり、怪物
同時にそれは自分自身が作り出した感情という怪物であるのは間違いない。
ここにこの物語の普遍的な事実が忍ばされていた。
これは人類の非常に大きなテーマであるとおもう。
これこそがこの作品が最も言いたかったことなのだろう。
素晴らしかった。
