「200年前の少女が作家になるまで」メアリーの総て だいずさんの映画レビュー(感想・評価)
200年前の少女が作家になるまで
ハイファ・アル=マンスール監督の前作『少女は自転車にのって』が素晴らしくって、ワジダの冒険がいじらしくってかわいらしくってすがすがしくって印象的だったので、次作にあたる『メアリーの総て』も楽しみにしていました。
主演は今を時めくエル・ファニング。なんてときめく布陣なんだろかって思いました。
ちゃんと年代が映画では出てきませんが、1810年代のお話のようです。
メアリーの継母がダンウントンアビーのアンナでした。アンナはとっても性格の良い素敵な女性でしたが、今回の継母さんは無学で俗っぽい感じの人でした。ダウントンアビー(1912年以降)の更に100年前、こないだ見たディケンズのクリスマスキャロル執筆(1840年代)物語よりも前です。
フランス革命が1789年でナポレオン即位が1804年。その頃のイギリス情勢は疎くってわかりませんが、時代感はそんな感じです。
作家の娘であるメアリーは当時では前衛的な考えをもつ少女です。父母の前衛的思想を受け継ぐ一人娘で、継母との折り合いはよくない。継母の連れ子のクレアとはなかよしです。母はメアリー出産後に急死、父は高名だけど経済状況が良くなくて、著述業の傍ら書店経営をするも借金に苦しんでいる。
メアリーは継母と折り合いが悪すぎて、父の友人?の田舎(スコットランドだったかウェールズだったか忘れた)へやられるが、そこは結構楽しいところだった。友達はできたし、文学的な刺激もたくさん。何よりパーシー・シェリーという美貌の詩人といちゃつく仲になります。たのしい田舎生活ですが、クレア急病(仮病)の知らせによりロンドンに連れ戻されがっかりしてたら、父の教えを請いたいとシェリーが自宅へやってくる。もうそらイチャイチャしますわな。だって16だもん。自分の内面に自覚的な女の子ならば、湧き出る性欲をぶつける相手がいるならば、性欲に没頭すると思う。自明のこと。
ここまでは何も問題ない。自然な流れ。だけどシェリーの妻という人が現れて事態は急変。なんと子どももいるってんだ、シェリーの野郎には。
シェリーに怒りをぶつけると、悪びれもせずにこの男は言うわけです「自由恋愛を信奉しながら僕には認めないのか」とね。
たしかに自由恋愛という観点から論じれば、破綻のない主張に見えるけど、シェリーがメアリーとの恋愛において最初っから不誠実だったってこととは無関係よね。ハリエットもいるけどメアリーが好きねんっていう口説きだったら、妻帯者による自由恋愛ってことで、メアリーは乗るか反るかを決められたのにさ。
結局メアリーはあふれる感情(性欲)に任せてシェリーと駆け落ちすることを選びます。妹クレアと共に。でも、19世紀初頭に10代の家出娘が出来る事なんてない。男(シェリー)に依存する以外何にもできない。シェリーだって、まだ若造だし、文壇的地位がどれくらいあったかわかんなかったけど裕福なのは本人ではなく親みたいで、ハリエットの時も駆け落ちだったのにさらに別の女性と駆け落ちしたもんだから実家から勘当されてぼろ宿にしか住めないと来たもんだ。
かくしてメアリー父の予測は当たり、なんか先行き不安な感じです。
やがて急にシェリーの羽振りが良くなり、召使い付きの豪邸へ引っ越すけれど、そのお金は実家を抵当に入れた借金…ばかかシェリーは。
メアリーは不安の中で妊娠し、シェリーの友人にレイプされそうになりながら無事に子を産みます。
妊娠中からクレアとシェリーがもしかしたらヤってるかもって空気がありますし、たぶんシェリーは外では堂々と遊んでいたでしょう。
そのことに気づきながら、自分の出来る事をしようと生きる(耐える)メアリーはかっこよかった。
やがて子供を産みます。産んだ子を慈しみ、これぞしあわせと思っていたら、シェリーが金貸しに追われることになり、発熱中の新生児は雨に打たれてはかなくなってしまう。メアリーは再びのぼろ宿で床についてしまいます。
クララの死との前後を忘れましたが、シェリーに乞われて劇場へ行き、カエルの死体に電気を流して筋肉が収縮するという光景を見たメアリーは、インスピレーションを得ます。そして、バイロン卿と出会ったクレアは、バイロン卿に近づき
妊娠します(妊娠はメアリー出産の後のはず)。
本を出してちょっとだけ経済的に潤ったんだったか何だったか忘れたけど、バイロン卿の別荘へメアリー、シェリー、妊婦クレアで押しかけて、しばらく滞在し、バイロン卿のみんなで怪談を1本づつ書いて発表しよう!との提案が、トリガーとなり、メアリーからは物語が醸造されてゆきます。
鉛筆(楕円形)を握り、書き続けるメアリーには、迫力がありました。
そうして書き上げた作品をシェリーに読ませると、いい反応。いそいそと出版社へ行くも、題材が若い娘には似つかわしくないだので門前払いに次ぐ門前払い。
でも、『フランケンシュタイン』を読んだクレアは怪物に共感したという。
この苦しみは多くの女性に理解されるとも言ってたと思う。
あきらめずに出版社を回り続けて、やっと出版にこぎつけるけれども匿名が条件で、さらにシェリーの序文付ってもの。
出版社を回っている中で男だったら味わうことのない差別を受けて、シェリーに当たり散らすメアリーの怒りは、200年後の私の怒りとそう大差がなく、共感とともに憤りを覚えました。
出版後はシェリーの作だと言われるし、散々ですが、父の書店での読書会(?)で父は、メアリーの意図をくみ取った解釈をしてくれる。そして、思いもよらずシェリーが『フランケンシュタイン』は自分の作ではなく、メアリーの著作であり、傑作だとほめてくれるんですね。そうしてメアリーとシェリーは再び寄り添い生きていった。『フランケンシュタイン』はメアリーの名で出版されたということでエンディングとなります。
結構あらすじが詰まっているので、ドラキュラの作者?のところとかはしょりましたけど、おおむねこんな筋でしたよ。
シェリーがうざいのは言わずもがな、ですが、私が気になったのはクレアですね。母と同じく無学無知な素朴な少女です。メアリーへの思慕は思想への共感ではなく、快楽に唆されただけと見えました。なので、訳も分からず、バイロン卿やシェリーに身を任せたのでしょう。その結果、身ごもるがバイロン卿には冷たくあしらわれます。
悲しいかな、クレアと同じ状況になってしまった女の数って、数えきれないでしょう。男たちは訳も分からず快楽に身を任せたとしても、若気の至りで済ませられるけれども、女たちはそうはいかない。避妊はおろか中絶も技術的・文化的に難しく、稼ぐ手立てもないのに、子は母親の腹からしか生まれない。
ちょっとした若者らしい浅はかさが、一生の枷になるっておかしいでしょうよ。
でも、変えようがないんだよね。なので、体とその後の人生を守るためにも、女の貞操だけが求められたのかなって思いました。
メアリーは苦労したし、自分の言動を悔やんだだろうけど、ころんでも闇に飲み込まれずにすむ道しるべを持っていた。それが父母から学んだ思想や哲学なんだろうと思う。
要素が詰まっているので、咀嚼が不十分ではあると思うんだけど、見ごたえがありました。そして、少女から成人女性へと移ろう短い季節を、現在生きているエルファニングとメアリーの邂逅が、奇跡よなって思いました。
ということで映画は満足したのですが、帰宅してシェリーやメアリーの略歴等をネットで漁ったところ(主にwiki)、映画のあらすじは結構史実と違うってところにそこそこ「えっ」ってなりました。