告白小説、その結末のレビュー・感想・評価
全17件を表示
『ミザリー』風かと思っていたら・・・
終わってみると色んな解釈が出来そうな作品。こういった映画を観終わった後でカフェに入って語り合うのがいいなぁ。でもココアなんかに殺鼠剤は入れないでね!
小説家の熱烈なファンというだけで、『ミザリー』を思い出してしまうのですが、もっと精神的な葛藤があり、主従関係が逆転したりして、最終的には彼女“ELLE”は何だったの?と小説家の妄想世界にやられてしまう。
もしかしたら、ELLEというのがデルフィーヌの分身であり、彼女本人の世界を乗っ取ってしまったような二重人格による不条理も感じられる。顔や年齢がとにかく違うのだから、“成りすまし”なんてのもあり得ないし、パスワードを教えたりノートの存在を教えたりと人を信じすぎる主人公。「ノートが・・・ない」なんてのもわざとらしい。結局はネタに苦しんだスランプ状態が引き起こした架空の存在と想像できるし、骨折したり毒を飲んだり側溝に落ちたりと、自虐的行動も面白かったりする。。
このようなサイコサスペンスはまるでフランソワ・オゾン監督が得意とするもので、ポランスキーの名前を隠していたらオゾン作品だと信じてしまいそうだ。いや、オゾン監督だと打ち明けられていたら、「またかよ!」となりそうだが・・・
人は印刷された言葉を信じる
映画「告白小説、その結末」(ロマン・ポランスキー監督)から。
主人公の「エル」が実在したのか、妄想なのか?
彼女が、実在したのなら「デルフィーヌ」に接近した目的は?と、
一回観ただけでは、私の疑問は解決できなかった。(汗)
いつものように、ストーリーと外れるけれど、
気になるフレーズをメモして振り返ったら、
「人は印刷された言葉を信じる」と
「どんな作家も3面記事を題材に。なぜだと思う?
信頼できる情報だからよ」が浮かび上がった。
それだけ、印刷された書物や新聞記事の影響は大きく、
講演会で聴いたいい話やラジオ、テレビの放送とは違うことを
端的に表現していたと思う。
最近、映画の冒頭で見かける「事実に基づいた物語」のフレーズも、
この人間の心理を引きつけるには申し分ない。
たとえそれが「フィクション」であっても「ノンフィクション」だと
勘違いしてしまうほどの力を持っている。
だからこそ、誰もが気にも留めない新聞の三面記事であろうと、
実際に起きた事実だからこそ、作家は題材にしようとする。
そういうことなんだろうな、この作品で言いたかったことは。
どこかで観ました
ポランスキーなので、もっとこう「えっー」みたいなものを期待してましたが、皆様のレビューにもあるとおり、私も「ファイト・クラブ」と「スイミング・プール」そのままだと思ってしまいました!主人公の苦しみの描写は「ファイト・クラブ」に勝るものは今のところないと思っているので、物足りなかったです。
あるようでない進展
ロマン・ポランスキー監督独特の世界観というか、日常を描いているのに雰囲気が異常 というのはやっぱりあるなぁと思いながら観ていた。
エバ・グリーンがセクシーで、いつも身なりが美しくてため息が溢れるほど!こんな女性に擦り寄られたら、同性でもころっといっちゃう。
でも、そんな簡単に軟禁状態に迄なりますか?というのも腑に落ちなければ、エルに意外とヒステリックな程の熱意があるにも関わらず結局主人公とどうなりたいのか、どうしたいのかが見えてこないまま明確でないエンディング(そもそもELLEは存在したのか?)を迎えて、サスペンスと呼ぶには肩透かしを食らうし、かといってエロティックですかと聞かれると決してノーだし…。いまいち分からないけど、再度見返すモチベも湧かないかな。
2通りの解釈が並存可能
主人公の前に現れた謎の女性,"Elle(エル)"は,主人公の妄想に過ぎなかったのだろうか。それとも実在する女性だったのだろうか。
投稿された複数のレビューを読むと「エルは主人公の妄想」と断定するものが多い。しかし「どちらの可能性も、劇中で与えられた情報からは否定できない」というのが正しいと思う。どちらの解釈も許容されるようなやり方で,この映画は作られている。
例えば冒頭のサイン会のシーンを取り上げてみよう。
「エルは主人公の妄想」派は,次のような点を根拠にあげるかもしれない
① サイン会場には多くの人が訪れているはずなのに,エルの背後には誰も写っていない
② 会場には多くの人がいるにも関わらず,環境音が存在しない
③ サイン会は中断されたにも関わらず,エルはどうやって主人公の目の前までたどり着いたのか。どうしてエルはスタッフに静止されなかったのか
まず①に関して注意すべきことは,カメラの位置である。サイン会の場面では,カメラは基本的に主人公の顔の位置に固定されている。一般のファンは主人公の顔の高さまで身をかがめて主人公に話しかけるので,背後に列を作っている他のファンもカメラに収まる。しかしエルだけは身をかがめず,直立不動のまま,上から目線で主人公に話しかける。そのため座ったままの主人公の顔の位置にあるカメラは,エルを見上げるような角度で,天井を映し出すことになる。そのため背後にいる観客が仮に存在していたとしても,映し出されずに済むのである。エルが直立不動で主人公に話しかけていることは,主人公がわざわざ立ち上がって返答していることからもわかる。エルの背後に観客が存在していたかどうかは,視覚的情報からはわからないのである。
また②に関して「これは環境音を絞る演出である」という言い訳をすることができる。映画やドラマでは,実際は環境音が存在しているにもかかわらず,音が一時的に絞られることがある。例えばパーティに参加した主人公が女の子と目があって一目惚れするシーンなどである。この映画でも,主人公がエルを一目見た瞬間に何か特別なものを感じたことを強調するために,実際には存在する環境音を,主人公の意識が遮断し,エルの顔をじっと見つめていることを強調するために音を絞ったのだ,とも言えるのである。そのため音声情報からも,エルの背後に群衆がいたかどうかは判断できないのである。
③に関しては,「スタッフはファンを解散させるのに気をとられて,主人公の方を見ていなかった」とでも言い訳することができる。サイン会の中止が宣言されてからエルが主人公の目の前に現れるまで,エルと主人公が会話してから主人公が再び群衆に囲まれるまで,が描かれていないので,なんとも言えない。
サイン会のシーンと同じようなことは,他の場面についても言える。
・カフェの店主がエルに視線を向けず,言葉もかけないのは,エルが主人公の妄想だからである
・電車から降りた主人公を,乗客が見つめているのは,妄想のエルに対して主人公が独り言を言っていたからである
・エルのマフラーの色が,主人公のものと同じである
・Elleの机の上の道具の配置が,主人公の道具の配置と反転対称になっているのは,主人公の妄想だからである
・エルのブーツ,服装,髪型がだんだんと主人公と同じになっているのは,主人公がエルという妄想の人格に支配されていくことを表している↔︎エルは実際に存在し,主人公を支配していく
・ガソリンスタンドで,高校の司書は主人公に対して「講演をすっぽかした」「中止の連絡もしなかった」と言った。つまり講演は実施されなかった。司書はエルには声もかけなかった。エルは高校の司書の顔も知らなかった。それゆえエルは主人公の妄想である↔︎エルは実在し,高校の講演に行くと嘘をついて実際には行かず,主人公の評判を下げようとした。
・隣人と主人公,司書と主人公が会話するとき,エルは不在である
・主人公はギブスをしたままでも運転できるはずである↔︎運転は難しい
『ナインスゲート』『ゴーストライター』を思わせる,ポランスキーらしいミステリアスな作品だと思う。
参考映画
『ファイトクラブ』(1999)
『シックスセンス』(1999)
『複製された男』(2013)
『二重螺旋の恋人』(2017)
比較すると面白い
オゾン監督「スイミングプール」と仕掛けが似ている。
作家のスランプ、苦悩は想像以上のものなのだろう。
編集者がいてもパートナーがいても孤独の闇の中から何かを生みださなければならない。
その結末が見えない⁉️
主人公二人の間に存在する時は近くある時は果てしなく遠い距離感、物語の進行に伴い高まっていく行き詰まるほどの緊張感を見る者に与えるポランスキー監督の演出力は流石!しかし、2人の心理状況に至るまでのプロセスが今ひとつ不可解なのは、私の見方が甘いからだろうか?また、"エル"がデルフィーヌに接近したのは偶然?故意?目的は何?疑問が解かれぬまま見終えてしまって、消化不良でした。
迂闊な遣り手
結局エルはデルフィーヌが創り出した人間だったってことか…多重人格とはまた違うような気もするけど。
最後のサイン会時のデルフィーヌがエルと同じようなメイクをして自信満々でニヤッと笑ったその顔にゾクゾクした。
正直、多重人格や創造人格オチ、結局全て自分でした的な終わり方って好みでない。
安易な印象があるし、思い返すとどうしても辻褄が合わなかったり無理矢理な展開だったり、それらを全て幻覚・妄想だからと片付けられてしまうのはなかなか納得しがたいので。
この作品でも、片脚の折れたデルフィーヌには難しい行動をエルがしていたわけで、それを考えるとウーンと思ってしまう。中毒を起こして体調を崩しながらスープやココアを作ったの?とか…
ただ、この結末に至るまでがサスペンスとして非常に面白かったので妙に満足感がある。
エルにどんどん取り込まれていき、それでも逆にエルの人生を小説にしようと密に動きつつ迂闊な点の多いデルフィーヌの危うさにドキドキする。
でも、強烈なキャラの人格を創り出しそれを元に小説を書いてヒットさせているあたり実はかなり遣り手ではあるんだけども。
もしかすると、自殺した母のキャラクターもデルフィーヌの創り出した人格なのかもしれない。
きちんと謎解きされる訳ではないので、逆にエルが実在する人間だったとしたら相当恐ろしいことになる。
なんか色々考えていたら多重人格・創造人格オチも結構面白く思えてきた。
そもそもこの映画は面白かったので、オチの好みは置いておいてオールオッケーかな。
映像の作り方がものすごく綺麗。
エヴァ・グリーンが美人すぎて、その大きな目と口が怖くてこの映画にぴったりだった。
女同士の確執? 否、実は・・・って
新進の女流作家デルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)。
心を病んで自殺した母親のことを綴った処女作がベストセラーとなり、サイン会を催していた。
長蛇のファンの列に疲れた彼女は、サイン会を途中で打ち切ったが、最後に、エル(彼女)と名乗る若い女性(エヴァ・グリーン)が目の前に現れた。
その場は断っとデルフィーヌだったが、その後に訪れたパーティ会場で再び出くわし、話をするうちに気心が知れていく。
近所に住んでいたことがわかったエルと、デルフィーヌはひょんなことから同居をすることとなり、エルはデルフィーヌを影響を与えていく・・・
といったところから始まる物語は、『ファントム・スレッド』を思わせるような支配と服従、主客逆転の物語のように進んで行きます。
このような女性同士の確執の物語では、ジュディ・デンチとケイト・ブランシェットによる『あるスキャンダルの覚え書き』や、カトリーヌ・フロやデボラ・フランソワによる『譜めくりの女』などが最近ではある。
また、作家(男性だが)とそのファンというならばスティーヴン・キング原作の映画化『ミザリー』とうのもある。
それらの作品と比べると(比べる必要はないのだけれど、思い出してしまうのは仕方がない)、どうもヘンテコリンな感じがする。
というのは、とにかく徐々に偏執的要素を出してくるエルが、実にヘンテコリンなのだ。
演じるエヴァ・グリーンの演技はオーバーアクトで、突然キレてしまうのには脈絡がない(いや、あるにはあるのだが)。
そんな彼女に付き合うデルフィーヌも、いい加減すればいいのに・・・と思ってしまって、途中で飽き飽きしてしまいました。
ま、最後まで観れば、エルを突き放せないその理由もわかる仕掛けになっているのだけれど、それにしては伏線の張り方が下手すぎる。
デルフィーヌ・ド・ヴィガンによる原作小説があるようだけれど、最後のカットで謎解きをして、タイトルを出して留飲を下げる、ということで満足しているだけのようで、脚本がうまくないとしかいえない。
と思ったら、脚本は(苦手な)オリヴィエ・アサイヤス(ポランスキーの名前も並べてあるが、たぶん、メインはアサイヤスでポランスキーは直しのレベルだと思われる)。
もっとスリリングになりそうなのに、意外にズンダラしてメリハリが効いていない。
ちょっと期待外れな一本でした。
暗い影
一見「ルームメイト」か「ミザリー」みたいに見えて、実は「シークレットウインドウ」や「スイミング・プール」寄りのお話だった。他にも似たプロットの映画があった気がするし、何で同じような話を作りたがるのかと訝る。そもそもこの手の仕掛けは一人称の小説ならともかく、客観描写である映像でミスリードするのは(個人的には)反則だと思う。
ポランスキーの近作をすべてチェックしているわけではないが、このところ“球を置きに”いっている感じがする。もとから豪速球で勝負するタイプではないので、やはりもっと切れ味のいいカーブかスライダーを期待してしまう。
エヴァ・グリーンは極上の美人だが、「ダーク・シャドウ」の魔女さながらの性悪さが全身からほとばしっているのは属性か。あの「赤い航路」のエマニュエル・セニエがすっかり老けていたのにも驚いた。
結局、、
結局幻覚だったってことで良い??(笑).
お母さんの事を小説にした事が負い目で心が病んでる主人公がだんだん二重人格になってエルっていう幻覚の友達を見てたって解釈かな、自分的には。
たぶんエルが途中で話す、エルの想像の中のキキっていう友達のことも伏線だよね??.
.
それにしてもこの主人公のメンタルの弱さには呆れる。誹謗中傷なんて無視しとけばいいのに、それを読んでもう仕事したくないってワガママかよ(笑).
.
悪口言う人がいるから仕事できないので休みます。一生に1度は言ってみたいかも(笑)(笑).
ドッペルゲンガー
最近の発表によると、サイコパスというのは人口の1%~4%もいるそうである。サイコパスについてはいろいろ説があると思うが、私の理解では、日常的に怒鳴ったり喚き散らしたり平気で嘘をついたりと、とにかく他人に対して高圧的で強制的な人格障害である。会社の社長にはこういう人が多い気がする。日本の社長の人数は人口の2%ほどらしく、サイコパスの割合に似ている。そういえばモリカケで責められると喚き散らしたり平気で嘘をついたりする日本のトップもいる。
さて、作家というものは多かれ少なかれ、身を削りながら小説を書く。私小説であれば尚更である。発表すると周囲の人間から自分のことを悪く書いたと罵詈讒謗を浴びせられることもある。それでも作家は小説を書く。書くことが生きることだからである。
本作品は、デビュー作の私小説が大ヒットしたという設定の女流作家の話である。スランプに陥ってなかなか新作が書けない。自分のことを書くのが嫌だからフィクションを書こうとするのは私小説作家が一度は通る道である。
スランプに陥った主人公デルフィーヌの前に救世主のようにElleという女が現れて、彼女を批判し、または叱咤激励する。しかし小説の方は一向に進まない。そうしていくつか事件が起きる中で、Elleは徐々にサイコパスのような女に変身していく。こんな感じのプロットだが、途中からいくつも疑問が沸き起こってくる。それが解けるのは最後の最後の場面だが、必ずしも私の理解が正解とは限らないことを予め断りつつ、以下は私の推測である。
全部見終わってからよく考えてみると、Elleを見たのはデルフィーヌと観客だけだ。行きつけのカフェの店員はまるでElleがいないみたいな振る舞いだったし、下階の住人が主人公と関わるのはElleがいないときに限られる。デルフィーヌの夫フランソワはたしかにElleと電話で話したはずなのに、話していないと言う。彼が嘘を言っているとは思えないし、その必要もない。そして最後のサイン会のデルフィーヌの表情である。自分が書いていないと一度は主張した本に平気でサインをするのは、サイコパスか、本当は自分で書いた本だからのいずれかだ。
賢明な映画ファンはすでに分かっていると思うが、主人公デルフィーヌはドッペルゲンガーなのである。大人しそうなデルフィーヌの様子からは考えられないサイコパスみたいなElleは、彼女の中のもう一つの人格なのだ。小説が書けない産みの苦しみが、もう一つの人格を創造して、その人格に苦しめられつつも、ついに新作をものにする。
デルフィーヌの恐怖体験は、そのまま作家としての苦しみに一致していたのだ。この一連のプロットはなかなか見事である。映画のキャッチコピーで「どんでん返しに驚愕する」と書かれている映画ほど、それほど大したどんでん返しではないのが通例だが、この映画は主人公が追い込まれるだけに、ネタ晴らしは観客を驚かせる。鑑賞中の疑問を最後の場面で一気に解き明かす手法がこれほどうまくいった映画は初めて観た。見事である。
全17件を表示