「2通りの解釈が並存可能」告白小説、その結末 f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
2通りの解釈が並存可能
主人公の前に現れた謎の女性,"Elle(エル)"は,主人公の妄想に過ぎなかったのだろうか。それとも実在する女性だったのだろうか。
投稿された複数のレビューを読むと「エルは主人公の妄想」と断定するものが多い。しかし「どちらの可能性も、劇中で与えられた情報からは否定できない」というのが正しいと思う。どちらの解釈も許容されるようなやり方で,この映画は作られている。
例えば冒頭のサイン会のシーンを取り上げてみよう。
「エルは主人公の妄想」派は,次のような点を根拠にあげるかもしれない
① サイン会場には多くの人が訪れているはずなのに,エルの背後には誰も写っていない
② 会場には多くの人がいるにも関わらず,環境音が存在しない
③ サイン会は中断されたにも関わらず,エルはどうやって主人公の目の前までたどり着いたのか。どうしてエルはスタッフに静止されなかったのか
まず①に関して注意すべきことは,カメラの位置である。サイン会の場面では,カメラは基本的に主人公の顔の位置に固定されている。一般のファンは主人公の顔の高さまで身をかがめて主人公に話しかけるので,背後に列を作っている他のファンもカメラに収まる。しかしエルだけは身をかがめず,直立不動のまま,上から目線で主人公に話しかける。そのため座ったままの主人公の顔の位置にあるカメラは,エルを見上げるような角度で,天井を映し出すことになる。そのため背後にいる観客が仮に存在していたとしても,映し出されずに済むのである。エルが直立不動で主人公に話しかけていることは,主人公がわざわざ立ち上がって返答していることからもわかる。エルの背後に観客が存在していたかどうかは,視覚的情報からはわからないのである。
また②に関して「これは環境音を絞る演出である」という言い訳をすることができる。映画やドラマでは,実際は環境音が存在しているにもかかわらず,音が一時的に絞られることがある。例えばパーティに参加した主人公が女の子と目があって一目惚れするシーンなどである。この映画でも,主人公がエルを一目見た瞬間に何か特別なものを感じたことを強調するために,実際には存在する環境音を,主人公の意識が遮断し,エルの顔をじっと見つめていることを強調するために音を絞ったのだ,とも言えるのである。そのため音声情報からも,エルの背後に群衆がいたかどうかは判断できないのである。
③に関しては,「スタッフはファンを解散させるのに気をとられて,主人公の方を見ていなかった」とでも言い訳することができる。サイン会の中止が宣言されてからエルが主人公の目の前に現れるまで,エルと主人公が会話してから主人公が再び群衆に囲まれるまで,が描かれていないので,なんとも言えない。
サイン会のシーンと同じようなことは,他の場面についても言える。
・カフェの店主がエルに視線を向けず,言葉もかけないのは,エルが主人公の妄想だからである
・電車から降りた主人公を,乗客が見つめているのは,妄想のエルに対して主人公が独り言を言っていたからである
・エルのマフラーの色が,主人公のものと同じである
・Elleの机の上の道具の配置が,主人公の道具の配置と反転対称になっているのは,主人公の妄想だからである
・エルのブーツ,服装,髪型がだんだんと主人公と同じになっているのは,主人公がエルという妄想の人格に支配されていくことを表している↔︎エルは実際に存在し,主人公を支配していく
・ガソリンスタンドで,高校の司書は主人公に対して「講演をすっぽかした」「中止の連絡もしなかった」と言った。つまり講演は実施されなかった。司書はエルには声もかけなかった。エルは高校の司書の顔も知らなかった。それゆえエルは主人公の妄想である↔︎エルは実在し,高校の講演に行くと嘘をついて実際には行かず,主人公の評判を下げようとした。
・隣人と主人公,司書と主人公が会話するとき,エルは不在である
・主人公はギブスをしたままでも運転できるはずである↔︎運転は難しい
『ナインスゲート』『ゴーストライター』を思わせる,ポランスキーらしいミステリアスな作品だと思う。
参考映画
『ファイトクラブ』(1999)
『シックスセンス』(1999)
『複製された男』(2013)
『二重螺旋の恋人』(2017)
今晩は
挙げられているレビュー、一通り拝読しました。
結論から申し上げますと、深い洞察力に基づいた精緻な文章に驚きました。(取り分け、今作のレビュー)
今作は、私はとても好きで2度鑑賞したのですが、レビューを拝読し”私の解釈はまだまだだなあ・・”と思うとともに細部にまで言及された数々のコメントに驚きました。
豊富な映画鑑賞に基づく、次なるレビューを楽しみにしています。
では、又。
尚、返信不要です。