ともしびのレビュー・感想・評価
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「無かったことにする」という罪とその罰
主人公アンナの辿る人生に数奇なところは何もない。何もないが故に、重い衝撃と繊細な表現に感服する。
これはある女の、崩壊の物語だ。
予告は観たけれどあらすじは読まなかったので、予備知識無しで観ていた私は、アンナの夫が収監されるシーンで「ずいぶん殺風景な老人ホームだな」と、能天気な事を考えていた。
今から思えば、そんな感想を私に抱かせるほど、アンナから動揺や焦りや不安、怒り、嘆き、そんな心情が伝わってこなかったのである。
私が状況を把握出来なかったのは、アンナ自身が自分を取り巻く状況を把握することを拒んでいたからだ、と気づくのは映画が終わった後の事だ。
アンナと夫の結婚生活は、夫が行動しアンナが従うという関係を崩すことはなかった。アンナは夫を消極的に肯定し、問題に対処するのは常に夫で、自分を否定しないアンナと彼の結婚生活は「二人の間」では波風の立たない平穏さを持続していたのだと思う。
夫が刑務所に収監されたことで、アンナの日常は綻びはじめる。自分の人生を自分が支配しなくてはならない。結婚してからのアンナに、そんな事態は起こったことが無かったのに。
オープニング、食事中に電球が切れても微動だにしないアンナに、あらゆる問題を「無かったことにする」彼女の生き方が示唆されている。
夫は食事を中断し、電球を取り替え、食事を再開する。二人は無言だ。
良いも悪いもなく、それがこの夫婦の「普通」なのだ。
アンナの夫は小児性愛者だ。幼い子どもの母親とみられる怒鳴り声が、アンナを糾弾するシーンでも明白である。
長年の彼の罪を、アンナは「無かったこと」にしてきた。問いただすことも、怒ることも、別れることもなかった。切れた電球をチラリとも見ないように、夫の行為を我慢するでもなく、ただ無視し続けたのである。
アンナの息子は彼女とは違い、父親の行為を許せなかった。アンナの夫が収監されたのは、息子の訴えが大きな要素を占めている。
「父親に向かってなんて事だ」「お前も許すな」というのは面会に来たアンナに対する夫の言葉だ。
孫の誕生日パーティーから門前払いされたアンナが、夫に「本当は起こらなかった家族との交流」を語った後、話が二人の息子に及んでのセリフである。
無視した妻と見過ごせなかった息子。息子はアンナの「辿らなかった人生」を現す人物だ。
アンナの「辿らなかった人生」は、演技ワークショップでの「夫と別れようとする女性の役」や「電車の中で激怒する女性」によってアンナを糾弾する。
特に電車に乗り合わせた女性が彼氏の浮気をなじる場面は、「一度でも私を愛したことがあったの!」というセリフにアンナが身を縮める。それはアンナの心の叫びではなく、アンナの罪を責める言葉だ。アンナが見なかったことにし続けた「夫」や「息子」や「被害者」たちの叫びだ。
だからアンナはビクリと体を震わせるのだ。
アンナがしたことは大それたことではない。傷つくことを恐れて、衝突することを避けて、ただ目の前の綻びを無視しただけだ。
その綻びを作り、隠してきた夫が彼女の人生から失われたことで、「小児性愛」という重大な犯罪からアンナを守るものは無くなってしまった。
アンナは子どもを恐れ、子どもに触れることを避け、子どもたちという「明るい未来」に近づいてはならないように感じているのだ。
ニュースで見た打ち上げられた鯨の死体は、アンナ自身である。進むべき方向を見誤り、生きるべき世界を離れ、朽ちていくのを待つ骸。
アンナは「死」というものを確認し、また自分の姿と重ねるために鯨を見に行く。仕事を早退したいと願い出たアンナは、強烈に「死」を意識していた。それは仕事先の子どもへの「いい子にしてるのよ」という声かけや、離れて眺めるしかない孫への視線からも見てとれる。
エンディング、長い長い地下鉄の階段を、降りていくのはアンナ一人だ。アンナの靴音は人生の残り時間を刻む時計の針のように、コツコツと無機質にアンナを死へと運んでいく。
アンナは電車に飛び込むような、突然の死を望んでいるわけではない。朽ちていく鯨のように、彼女は夫と過ごした家で緩慢な死を迎え入れるのだろう。
閉じた扉の陰に、完全に隠れたアンナの姿。彼女という存在が世界から失われた演出と無音のエンドロールが、どんな「死」のシーンよりも強烈に彼女の死を連想させた。
原題は「HANNAH」。同じアルファベットの並びで構成された彼女の名前が、「選んだ行動」が「結果」に帰結する重みを表している。
ほとんどの説明を省きながらも、要所を押さえた演出と繊細な演技が、アンナという女性の人生を克明に描き出す。フランス映画らしい重厚さと問題意識が、観る側に内省をもたらす。
とても哀しいのに美しくもある、完璧な映画だ。
フランス流『家族の絆』♥
変態オヤジはいてもいなくとも良かったが、馬鹿犬と馬鹿息子が必要なので、変態オヤジの痕跡としてオヤジ、犬、息子は置かざるを得ない。それでも、電球を代えた段階でオヤジの役目は終わり。彼を目の前に会話も無ければ、バックミュージックすら無い。この状況では
老いを感ぜざるを得ない。勿論、共有する者もいない孤独。
さて、これからどうする。
ゆりの雄しべをむしり取る動作はひょっとすると爺さんに対する腹いせか?
電車の中は、会話の出来る相手がいない。しかし、世の中が変わったのでは無く、自分が老いた事を痛感する。
それでも、女性は一人で生きる事だけは受け入れている。
さて、さて、どうする。
自宅を出て、ガキどもが階段を上がって来る。プールの時と同じ。頑張ってもガキどもとのスピードが合わない。でも、割とすんなり見過ごして彼女は一人降りていく。しかし、
打ち上げられたクジラを見て涙ぐむ。この情景を目の当たりにしては、もはや感情のコントロール出来ない。だから、最後に階段を女性としてヒールを響かせながら、しっかりとした足取りで降りていく。
『大丈夫だ』と確認出来た。
勇気が貰える。
犬(フィンからオリバーへ)はオス犬だと確信している。
傑作だ。素晴らしい階段落ちだ。
監督の目がとても残酷
賑やかな刺激など一切ないけれど、落ち着いた日々を過ごしていた初老の女性。そんな彼女の暮らしに僅かのヒビが入り、それがどんどん大きくなっていく。曇り空の下、そんな時間が澱みながら進んでいく様子を描写するカメラがとても陰鬱で怖い。
さらに、監督の目はもっと残酷。しょっぱなから老いたシャーロット・ランプリングのアップから物語が始まる。美の化身のようだったひとの、皮膚の皺、関節の弛み、艶の無さ…そんなものどもを情け容赦なく細かく撮っていくカットのひとつひとつも、物語の残酷さをいっそう強めている。
定点カメラの意味ばかり探してしまった
ほとんどのカットがカメラ固定で、その中で女優が動くので、観客が「映画を観る」のではなく、何かを「観させられている」気になった。
ストーリーは、なんとなくですが、夫が恥ずべき罪を犯した。“妻”としてその事件のショックから立ち直ろうと努力して、家から距離がある場所で働いたり、セミナーみたいな処に通い、夫の刑務所にも通う。ジム通いで体のケアも“女”として気をつけて、“祖母”として孫のことも愛しているようだが、息子からは孫の前で門前払いを食らうほど。よっぽど夫が犯した罪は恥ずべき行為だったのだと、推察できる。
そしてある日、タンスの後ろに夫の罪の証拠を見つける。ここで、アンナ(シャーロット・ラン プリング)は、初めて夫が罪人ということを「完全に理解する」。
映画は、そのままアンナの日常を描きながら終る。
全体を見て感じたのは、おそらく、アンナの罪は「無関心」なのかもしれない。
電車内でのアンナの振る舞いも、飼い犬になつかれていないのも、夫の悪趣味や愚行に気付かなかったのも、、世間的に「妻/祖母/女」として役割を演じることはできても他人には無関心。「アンナ」という自分にすら無関心。
クジラを見にいったシーンも、【クジラを見たけど何も感じなかった】ようにも見えた。すべての生活を淡々と過ごせるのも、おそらく「無関心」だから成せる業なのかもしれない。
何時の頃からか自分を見失っていた…いや、何もかもに「無関心」になっていた。
「何もない心(無関心)」にともしび(あかり)はともるのか。
なんとも切ない物語。どこでそうなったかは描かれていないが、人間なら誰しもに当てはまるテーマをなんとも淡々とそれこそ、定点カメラの意味が「無関心」のようにも思える。
シャーロット・ラン プリングじゃなきゃ出来なかった映画。難しいっ。でもこれはすごい。
シャーロット・ランプリングの存在に依存しすぎ
日本の映画配給会社は「まぼろし」「さざなみ」と来たシャーロット・ランプリングの平仮名4文字シリーズとして売り出したかったらしい「ともしび」ですが、本当に申し訳ない、もう全然わかりませんでした。というか、本当に何も感じなかった。心が少しも動かなかった。今見ているシーンが次のどのシーンにつながるのかも分からなかったし、さっき見たシーンがどこにつながるのかも、あるいはどこにもつながらないのかさえも分からなかった。
実際、この映画はあえて重要なエピソードを描き飛ばしているという要素もある。夫がなぜ逮捕されたのか。息子がなぜ母をあそこまで憎悪するのか。箪笥の裏に隠されていた封筒の中身は・・・?普通なら描くであろう部分をあえて描き飛ばし、その外側の余白を積み重ねることでその真髄にたどり着こうとしているのではないか、きっとそうだろう、という印象はあった。そしてそういう映画があってももちろん良いと思う ― 成功してさえいれば。
ただこの映画に関しては、本当にただただシャーロット・ランプリングの背中を追い続けて見つめ続けたまま、ただそれだけで終わってしまったような感覚だった。心が何も感じないまま。
確かに、シャーロット・ランプリングの背中を追いかけていればその時点でもうドラマである、という部分はある。彼女の存在自体がもはや既にドラマだし伝説だし。彼女のその顔も声も手も胸もすべてがドラマで人生で歴史。だけどこの映画はちょっとそれに頼りすぎだったという嫌いが。映画が暗転し、エンドクレジットが流れ出した瞬間に唖然とした。え?ここで終わり?ていうか、これで終わり?シャーロット・ランプリングが大好きだから、集中して観ていたはずなのに、何も感じなかったし何も伝わらなかったし、簡単に言うと、全然面白くもなかったし、なんならつまらないと思うことすらなかった。本当に、私にとって何にもならない映画だった。
シャーロット・ランプリングの新作だったから、どうしてもこの映画が観たくて、でも予定がギリギリで、わけのわからないデモで交通規制が敷かれている銀座の街を必死で走ったのに、観終えて残ったのは虚無感だけだった。
物語を補完する
インパクトのあるオープニング。
意味ありげな出来事が積み重なり、だけどそれらに何の説明もなく、ただただ進んで行くスクリーン。
この女性はどんな状況にあるのか、夫と思われる人は何をしたのか、どうしてもめているのか、それは何を意味するのか…
何一つわからないまま、エンドロール。
突然放り出されるように終わる。
でも不快じゃない。
全ての出来事や状況を自分の中で補完しながら観る物語。
100人が観たら100の物語が出来上がるんだろう。
私は、嫌いじゃない。むしろ楽しめました。
起承転結のない作品が苦手な人には無理な作品かもしれません。
前宣伝が良かったからか、90%くらい席が埋まっていましたが、1/3はぐっすり眠っており、出て行く人達は何が何だかさっぱりわからなかったと口々に言っていました。
たぶん、こんなストーリーのはず・・・
フランス語圏の地方都市。
長年連れ添った夫(アンドレ・ウィルム)とふたりで暮らしているアンナ(シャーロット・ランプリング)。
穏やかな日常のようにみえるが、どこか不穏な雰囲気。
グループワークショップに通うアンナは、ワークショップで顔を真っ赤にし、なにやら奇声をあげる・・・
といったところから始まる物語で、顔を真っ赤にして奇声を上げるのは演劇かなにかの自己表現の一環であるらしい。
カメラは、アンナの顔を正面から捉え、真っ赤から普段色に戻るまでを長廻しで捉える。
このファーストショットから、全編長廻しでアンナの行動を捉えていくが、彼女の背景はほとんど説明されない。
グループワークに通っているぐらいだからなんらかのストレスがあるのだろうが、説明はない。
そして、終始、苦虫をかみ潰したようなアンナ・・・
ということで、ま、なんだかよくわからない老齢の女性の不機嫌な様子を長廻しでみせられて、意識は瞬断。
覚醒するが、そのうち再び瞬断・・・の繰り返し。
なので、重要なシーンを観逃し、聞き逃しの可能性大。
一緒に観た妻から聞いたことも含めて、物語の骨子と背景をまとめると、こんな感じ。
アンナと夫は長年仲睦まじく暮らしていたが、ある事件が発覚する。
それは、夫による未成年男児への性的虐待。
アンナは信じられなかったが、離れて暮らす息子が警察に通報したため、夫は警察へ出頭、アンナはそれに付き添う。
未決犯として夫は収監されるが、アンナは夫が事件を起こしたかどうかには核心が持てない。
息子一家との断絶は深まり、孫の誕生日に訪れるが、追い返されてしまう。
そんなある日、天井からの漏水修繕のため、箪笥を動かしたところ、箪笥の裏側から事件を裏付けるおぞましい写真を見つけてしまう。
夫の無実を信じていたわけではないが、アンナは生きる希望が持てなくなってしまう。
折しも、海岸にクジラが打ち上げられ、死んだクジラは腐敗していく。
ワークショップでの成果発表で、アンナは声が出なくなってしまう・・・
というもの。
早い段階で意識が瞬断したので、夫がなぜ収監されているのか、その理由がわからなかった。
映画では、
アンナの部屋の外で、被害者男児の母親が大声で詰るシーンがあり、その台詞からわかる(らしい。妻から聞いたが、まるで記憶になかった・・・)。
肝心のところがわかっていなかったゆえに、映画が面白くなかったのかと思ったが、どうもそうではなく、やはり、圧倒的に物語の背景描写が少なすぎ。
物語を紐解くタイプの映画ではなく、ある不穏な状況下の女性の心裡心情を観る映画だと思うが、背景がわからないとその心裡心情も理解しづらい。
その上、シャーロット・ランプリングの演技は抑制が効きすぎて、あまりに感情の振れ幅が小さすぎ。
わからないこちらが悪い、と言われるかもしれないが。
ということで、『まぼろし』『さざなみ』と比べると、あまり評価はできません。
演出の凝縮。剥き出しの人間
びっくりするくらい面白かった。夢中で観た。
シャーロット・ランプリングの演技が素晴らしい。眉一つ、表情筋一ミリ動かすだけで、あれだけのものが表現できる。
それ以外で驚かされたのは、画面構成を始めとする演出の凝りようだ。
映り込む鏡、窓、通路。意味深なアングルとフォーカス。画面上に配置された色。
場面場面に丁寧に意味がこめられ、鏤められたモチーフが互いに呼応する様は、詩的でもある。それらの美しさにため息することは大きな喜びだった。
挙げれば切りがないが、「ストライプ」、「雪」、「秒針の音」、「階段」、「少年」、「花」等等の記号が代わる代わる現れては、場面と場面を、場面と物語を、繋いでいる。
特に印象的なのは、アンナが精神的危機に追い込まれる場面に、必ず「イエロー」が配置されることだろう(ゴミ捨て場のダクト、バースデイパーティの風船、鯨の管理スタッフの上着…。鯨に至っては、道中の渺漠とした海岸景色のそこここに散る色、ほぼ全てが黄色だ。)。
演出として好きだったのは、自宅で友人と演劇の練習をしているときに、収監中の夫から電話がかかってくるシーン。
台詞の読み合わせで、アンナは「…私は出て行きます。指輪をお返しします…」云々と言っている。夫と離別する妻の役柄。電話が鳴るとそれを中断して出るが、その時の画面中央にずっと映っているのは、アンナの左腕だ。薬指には当然指輪が見えている。聞こえる声は夫の世話を焼く妻の台詞なのである。綺麗に対比している。
テーマについては、明示されないので観客の方で取りに行く必要がある。人によって万別に感じられるだろう。このように余白を持たせたり、行間で語ったりする作品は好きだ。
劇中でアンナが演じているのはイプセンの『人形の家』(多分)。これは家庭に入った女が、妻や母としての自分を離脱した「本当の自分」を実現するために、夫も子供も捨てて出て行く話だ。
我々は生きていく上で、何らかの役割、或いはレッテル・呼び名を持つ。人間は社会的な生物で、他者との関わりの中で生きるものだからだ。我々は与えられた役割を時に演じもし、そのため自分を殺しもするが、時間の経過と共にそれは我々の自我と同化し、アイデンティティにもなる。
この映画は、その役割という側面を悉く剥ぎ取られた人間の姿、そこに残るものを描こうとしたものに思える。
アンナは絶望するが、絶望だけではない、一種の清冽さが観賞後の心に残る。自由は山巓の空気に似ている、どちらも弱い者には堪えることができない。というが、そのような厳しさの中に彼女は放り出されたようだ。
ラストシーン、アンナは地下鉄に乗り込み、珍しいことに立ったままでいる。ドアが閉まると彼女を隠すが、電車が走り出せば、窓にその姿が見える。
自分を失ったとしても、そこから動き始めれば、また自分を作り直し始めることができる、という比喩に思える。
☆☆☆★★ 簡単に。 淡々と進んで行く映像。映画は一切の説明を拒否...
☆☆☆★★
簡単に。
淡々と進んで行く映像。映画は一切の説明を拒否する。全ては主演シャーロット・ランプリングのしわがれた顔と肉体にて語られる。
あまりの説明の無さに「一体これは何だろう?」と思っていたところ、「ひょっとして…」と思い当たる映画の事を思い出した。
ルイ・マルの『鬼火』
彼女は自らの命の《ともしび》を消そうとしているのでは?…と。
彼女は、その想いを抱く度に鏡を見。その怖さを実感し、その都度に恐れおののいていたのかも知れない。
終盤にて、海岸で打ち上げられた鯨の姿を見ては、その醜悪さに思わず泣いてしまう。
映画のラストで、彼女は一旦は決意するものの。どうしても決断する事は出来なかった。
だがいつの日か、彼女は決断するだろう。
それを予感させるのが、無音のエンディングなのだと思える。
2019年2月7日 シネスイッチ銀座1
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