「シャーロット・ランプリングの存在に依存しすぎ」ともしび 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
シャーロット・ランプリングの存在に依存しすぎ
日本の映画配給会社は「まぼろし」「さざなみ」と来たシャーロット・ランプリングの平仮名4文字シリーズとして売り出したかったらしい「ともしび」ですが、本当に申し訳ない、もう全然わかりませんでした。というか、本当に何も感じなかった。心が少しも動かなかった。今見ているシーンが次のどのシーンにつながるのかも分からなかったし、さっき見たシーンがどこにつながるのかも、あるいはどこにもつながらないのかさえも分からなかった。
実際、この映画はあえて重要なエピソードを描き飛ばしているという要素もある。夫がなぜ逮捕されたのか。息子がなぜ母をあそこまで憎悪するのか。箪笥の裏に隠されていた封筒の中身は・・・?普通なら描くであろう部分をあえて描き飛ばし、その外側の余白を積み重ねることでその真髄にたどり着こうとしているのではないか、きっとそうだろう、という印象はあった。そしてそういう映画があってももちろん良いと思う ― 成功してさえいれば。
ただこの映画に関しては、本当にただただシャーロット・ランプリングの背中を追い続けて見つめ続けたまま、ただそれだけで終わってしまったような感覚だった。心が何も感じないまま。
確かに、シャーロット・ランプリングの背中を追いかけていればその時点でもうドラマである、という部分はある。彼女の存在自体がもはや既にドラマだし伝説だし。彼女のその顔も声も手も胸もすべてがドラマで人生で歴史。だけどこの映画はちょっとそれに頼りすぎだったという嫌いが。映画が暗転し、エンドクレジットが流れ出した瞬間に唖然とした。え?ここで終わり?ていうか、これで終わり?シャーロット・ランプリングが大好きだから、集中して観ていたはずなのに、何も感じなかったし何も伝わらなかったし、簡単に言うと、全然面白くもなかったし、なんならつまらないと思うことすらなかった。本当に、私にとって何にもならない映画だった。
シャーロット・ランプリングの新作だったから、どうしてもこの映画が観たくて、でも予定がギリギリで、わけのわからないデモで交通規制が敷かれている銀座の街を必死で走ったのに、観終えて残ったのは虚無感だけだった。