「演出の凝縮。剥き出しの人間」ともしび suiさんの映画レビュー(感想・評価)
演出の凝縮。剥き出しの人間
びっくりするくらい面白かった。夢中で観た。
シャーロット・ランプリングの演技が素晴らしい。眉一つ、表情筋一ミリ動かすだけで、あれだけのものが表現できる。
それ以外で驚かされたのは、画面構成を始めとする演出の凝りようだ。
映り込む鏡、窓、通路。意味深なアングルとフォーカス。画面上に配置された色。
場面場面に丁寧に意味がこめられ、鏤められたモチーフが互いに呼応する様は、詩的でもある。それらの美しさにため息することは大きな喜びだった。
挙げれば切りがないが、「ストライプ」、「雪」、「秒針の音」、「階段」、「少年」、「花」等等の記号が代わる代わる現れては、場面と場面を、場面と物語を、繋いでいる。
特に印象的なのは、アンナが精神的危機に追い込まれる場面に、必ず「イエロー」が配置されることだろう(ゴミ捨て場のダクト、バースデイパーティの風船、鯨の管理スタッフの上着…。鯨に至っては、道中の渺漠とした海岸景色のそこここに散る色、ほぼ全てが黄色だ。)。
演出として好きだったのは、自宅で友人と演劇の練習をしているときに、収監中の夫から電話がかかってくるシーン。
台詞の読み合わせで、アンナは「…私は出て行きます。指輪をお返しします…」云々と言っている。夫と離別する妻の役柄。電話が鳴るとそれを中断して出るが、その時の画面中央にずっと映っているのは、アンナの左腕だ。薬指には当然指輪が見えている。聞こえる声は夫の世話を焼く妻の台詞なのである。綺麗に対比している。
テーマについては、明示されないので観客の方で取りに行く必要がある。人によって万別に感じられるだろう。このように余白を持たせたり、行間で語ったりする作品は好きだ。
劇中でアンナが演じているのはイプセンの『人形の家』(多分)。これは家庭に入った女が、妻や母としての自分を離脱した「本当の自分」を実現するために、夫も子供も捨てて出て行く話だ。
我々は生きていく上で、何らかの役割、或いはレッテル・呼び名を持つ。人間は社会的な生物で、他者との関わりの中で生きるものだからだ。我々は与えられた役割を時に演じもし、そのため自分を殺しもするが、時間の経過と共にそれは我々の自我と同化し、アイデンティティにもなる。
この映画は、その役割という側面を悉く剥ぎ取られた人間の姿、そこに残るものを描こうとしたものに思える。
アンナは絶望するが、絶望だけではない、一種の清冽さが観賞後の心に残る。自由は山巓の空気に似ている、どちらも弱い者には堪えることができない。というが、そのような厳しさの中に彼女は放り出されたようだ。
ラストシーン、アンナは地下鉄に乗り込み、珍しいことに立ったままでいる。ドアが閉まると彼女を隠すが、電車が走り出せば、窓にその姿が見える。
自分を失ったとしても、そこから動き始めれば、また自分を作り直し始めることができる、という比喩に思える。