「Boy meets Wonder (ボーイ・ミーツ・ワンダー)」ペンギン・ハイウェイ カミツレさんの映画レビュー(感想・評価)
Boy meets Wonder (ボーイ・ミーツ・ワンダー)
※コメント欄に「〈海〉とは何か」「ペンギンとお姉さんの役割」「作中で明らかにされていないこと(人間に理解できない領域)」を追記しました。(2018/08/26)
個人的には細田守監督の『時をかける少女』を初めて観たとき以上の衝撃を受け、大いに感動いたしました。レビューにもついつい熱が入り、かなりの長文になってしまっています。
そこで、なんとか少しでも読みやすいレビューになればと思い、ここに各章の表題とキーワードを一覧にしてまとめました。
➀『ペンギン・ハイウェイ』はよく分からない?
──人間が理解できる領域と、人間に理解できない領域
➁アオヤマ君は“謎”とどう向き合うか
──アオヤマ君は「科学の子」
➂物語終盤、アオヤマ君は何を決断したか
──理解することの悲しみを知る
➃ラストシーンをあらためて見る
──「ぼくは会いに行きます」
元々は「原作小説との比較:『映像化』と『再構成』」という章をレビュー本文に含めるつもりだったのですが、独立して読める内容になっていますし、何より本文があまりに長くなっていますので、そちらはコメント欄の方に載せています。
また、みなさんのレビューを読んでいて、「結局、〈海〉とかペンギンとかお姉さんって何なの?」とか「謎が残ったままでモヤモヤする」といった感想が多いように感じましたので、映画と小説から読み取れることと、作中で明らかにされていないことを、私なりに整理してまとめ、コメント欄に追記しました。全編ネタバレ全開ですので、コメント欄をご覧になる際はご注意ください。
➀『ペンギン・ハイウェイ』はよく分からない?
まずは、「よく分からない」とか「難解」とも評される、本作の“分かりにくさ”について考えてみたいと思います。
この映画の内容をひとことで言い表すなら「小学4年生の男の子が、人智を超えた不思議に出会う話」です。ここで言う“人智を超えた不思議”とは、住宅地に突如として現れたペンギンたちであり、森を抜けた先の平原に浮かぶ謎の球体〈海〉であり、そして、歯科医院で働くおっぱいの大きなお姉さんです。
また、本作は子どもたちの胸躍るような冒険を描いたジュブナイルでもありますし、主人公アオヤマ君の初恋の物語(ボーイ・ミーツ・ガール(?))でもあります。言ってしまえば、この作品自体が作中に登場するペンギンのような存在なのだと思います。つまり、見た目は可愛らしいジュブナイルのようであっても、その中身は一筋縄ではいかないSFなのです。
ペンギンや〈海〉やお姉さんが投げかける謎は、作中で全てが解き明かされる訳ではありません。アオヤマ君がいくら聡明であるとは言っても、小学生の男の子にあっさり全貌を解明されてしまうようでは、本当の意味での“人智を超えた不思議”ではありませんから。
原作者の森見登美彦さんがおっしゃっているように、本作は「人間が理解できる領域と、人間に理解できない領域の境界線を描いて」います。つまり作中には「人間に理解できない領域」が明確に出てくるのです。そこに戸惑いを感じる方もたくさんいらっしゃるようですが、本来理解しようがないものにこだわっても仕方がありません。
重要なのは、「アオヤマ君がそれらの謎とどう向き合い、その果てにどのような決断をしたか」です。そこに注目することで、本作を少なくとも“物語として”読み解くことはできると思います。
➁アオヤマ君は“謎”とどう向き合うか
お姉さんの言葉を借りるならば、アオヤマ君は「科学の子」です。ペンギンや〈海〉やお姉さんが投げかける謎に対して、彼は科学者として、対象をよく観察し、集めた情報を元に仮説を立て、実験を行い、それらをノートに記録しながら、一歩ずつ着実に謎の核心に迫っていきます。つまり、どれだけ問題が大きく深遠なものであっても、決して思考を止めずに、科学的に探究し続けるのです。
例えば、お姉さんの投げたコーラの缶がペンギンに“変身”するという不可思議な現象を目にしても、アオヤマ君は冷静にその発生条件を調べようと実験を行い、その結果、日光がペンギンの発生条件であることを突きとめます。このような謎を解明していくプロセスこそ、SFの醍醐味だと思いますし、そこにはアオヤマ君の科学的な態度がよく表れていると思います。
※これ以降、物語終盤や結末部分の内容にふれています。重要なネタバレを含みますので、ご注意ください。
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➂物語終盤、アオヤマ君は何を決断したか
物語の終盤、アオヤマ君はついに“エウレカ”に至りますが、この瞬間に彼は、〈海〉とは何か、ペンギンとお姉さんの役割、そして自分が何をすべきかを理解したのでしょう。おそらく、その行動の結果、“お姉さんを失うことになる”ということも含めて。
お姉さんが“人間ではない”ということを反証するため、自らの身体を犠牲にして断食実験を行ったことからも、アオヤマ君にとってそれが到底受け入れられない事実だったということは想像に難くありません。しかし、最終的に彼は決断し、限りなく拡大を続ける〈海〉を消すため、喫茶店にいるお姉さんに会いに行きます。それは、自らの手でお姉さんを消してしまうことと等しいのです。
パンフレット内のレビューで、SF翻訳家の大森望さんが、序盤に出てくる抜歯の場面は身体的な痛みを伴うイニシエーションであると指摘されていますが、ここでのアオヤマ君の決断は、喪失という痛みを伴う精神的なイニシエーションであると言えます。アオヤマ君は、お姉さんを自らの選択によって失うことで、「理解することの悲しみ」を知るのです。
本作のエピローグに「世界の果てを見るのはかなしいことかもしれない」というアオヤマ君のセリフが出てきます。これまで、「探究し、理解し、知ることの喜びと可能性」を描いてきた本作ですが、その果てにアオヤマ君が理解することの悲しみを知るというのは、なんとも皮肉な結末だと思います。
➃ラストシーンをあらためて見る
ここまで、アオヤマ君が「人智を超えた不思議とどう向き合い、その果てにどのような決断をしたか」を詳しく見てきました。それを踏まえた上で、あらためてラストシーンを見てみましょう。
「ぼくが大人になるまでに……」という冒頭とほぼ同じ内容のモノローグにはじまり、彼が世界の果てを目指していること、世界の果てに通じている道はペンギン・ハイウェイであること、もう一度お姉さんに会えると信じていることなどが語られます。
──そう、彼はまだ探究することを止めていない。探究することに絶望していないのです。むしろ、お姉さんにもう一度会うため、以前よりもずっと大きな目標に向かって探究を続ける決意を語っているのです。
「ぼくは会いに行きます」
お姉さんとの別れ際にアオヤマ君が言ったこの言葉を、私は信じたいと思います。彼なら本当に世界の果てまで行き、お姉さんに会えるはずだと。人智を超えた不思議に対しても科学的な態度を貫き、理解することの悲しみを知ってもなお、それを乗り越えて探究を続けようとする彼なら、きっと。
ラストカットでアオヤマ君の目に映る探査船「ペンギン号」が、彼を後押ししているようで、彼が進む道(ペンギン・ハイウェイ)の正しさを証明しているようで、胸に熱いものがこみ上げてきます。なんと希望に満ちた結末なのでしょうか。
うーん、感激
こちらでのやりとりも、メッセージのあのコメントに繋がっていたのですね。
そしてまた、これらレビューのおかげで、原作者が森見さんだということにも気付けました。
いえいえ。以前琥珀さんと映画『メッセージ』について、コメントのやりとりをした時のことを思い出しました。その延長戦が突然始まったようで、すごく楽しいです(笑)
ただ、内容が完全に『あなたの人生の物語』についての話になってしまうので、私の解釈は『メッセージ』のコメント欄に“追記”という形で書いた方がいいのかなという気がしています。その際、琥珀さんのコメントを引用させていただいてもよろしいでしょうか?
もったいぶった書き方をしていますが、今回琥珀さんが出してくださった問いは、進化という観点で見たときの、人類とヘプタポッドの位置づけを明確にするものだと思っています。実は映画と原作小説では、この位置づけが微妙に異なっていると思うんですよね。
カミツレさんの解説がいつも緻密で説得力があるのでついつい甘えてしまい、結果的にはいつも無理難題を押し付けて貴重な時間を使わせてしまってますね。申し訳なくおもってます。
(小生のコメント欄もご参照ください)
早速にご返信いただき、ありがとうございます。
そういえば、お伝えしたいことがもうひとつありました。
『2001年宇宙の旅』で人類を木星に導いた知的生命体は、進化の結果、たぶん銀河系の星々を結ぶ神経ネットワークによる意思として存在(銀河系の星の数と人間の脳細胞の数はどちらも何千億という単位で似ている?)していると解釈しているのですが、ヘプタポッドはその進化の途中形態なのではないでしょうか?
カミツレさん、ご無沙汰しております。
ペンギン・ハイウェイの余韻が今でもふと心を捉えることがあり(けっしてまだ途絶えていない、のですね^_^)、森見登美彦さんの最新著作『熱帯』を手に取りました。
「この世界のどこかに穴が開いていて、その向こうには不思議な世界が広がっているという感覚」という表現もあり(未読の場合ネタバレになるので他の部分は触れません)、作者が描きたいテーマのひとつが繋がっていることが窺えました。ペンギン・ハイウェイ解釈の手掛かりが増えたのは良かったのですが、なぜ「熱帯でなければいけないのか」という謎が残り、まんまと作者の心地よい術中に嵌ってます。
〈海〉については、原作小説の中で「ぼくらの世界のやぶけたところ、神様が作るのに失敗したところ」という表現が出てきます。私が〈海〉を「自然発生的にこの世界に生じた“バグ”のようなものではないか」と考えたのはこのためです。つまり〈海〉は、この世界に存在してはいけないものであり、この世界の理(ことわり)を壊してしまうものなのです。しかも、ペンギンたちによって穴をふさがなければ、〈海〉はどんどん拡大していき、この世界を内側から呑み込んでいきます。アオヤマ君とお姉さんが〈海〉を消していなければ、〈海〉はアオヤマ君たちの街を呑み込み、やがては地球丸ごと全てを呑み込んでしまったことでしょう。
先ほど巾着袋のモデルは、この宇宙についての正確な形を表したものではないと述べました。では、“穴”は一つだけとは限らないのではないでしょうか。〈海〉とは自然発生的に生じた“バグ”のようなものだと考えられます。だとしたら、この宇宙のどこかにまた別の〈海〉が生まれている可能性は十分にあります。
〈海〉もペンギンたちもお姉さんも全て消えてしまいましたが、手がかりはまだ残されています。作られた記憶であるとはいえ、“海辺の街の記憶”がお姉さんの出生の秘密につながっているかもしれませんし、〈海〉に近い存在と考えられるブラックホールやワームホールについて研究することで、〈海〉の発生条件や出現地点を突きとめることができるかもしれません。アオヤマ君が世界の果てへと至るペンギン・ハイウェイはけっしてまだ途絶えていないのです。
以上、ちゃんと答えになっているか、甚だ心許ないですが、私なりの考えを述べさせていただきました。原作小説はじっくり考えながら自分のペースで読み進めることができるので、とてもオススメですよ。ぜひお読みください。
川野義和さん、コメントありがとうございます。
巾着袋を用いた説明のところは、下手に深入りするとややこしくなると思って、曖昧な書き方になってしまいました。すみません。もう少し丁寧に解説してみますね。
まず、この巾着袋のモデルですが、実際に宇宙物理学の分野で、宇宙がこのような形をしていると考えられているわけではないと思います。あくまで「この宇宙と“その外側の世界”があって、その“外側”に通じる“穴”がどこかに空いているとしたら」という思考実験のようなものだと考えてください。この“外側の世界”にあたるのが“世界の果て”であり、“穴”にあたるのが〈海〉です。
普通は“世界の果て”と言うと、遠く宇宙の果てまで行かないと辿りつけないものだと考えるのではないでしょうか。巾着袋の喩えで言えば、袋の外側に出るには、袋の縁(ふち)にあたる“口”を通らないといけません。しかし、巾着袋をひっくり返すとどうなるでしょうか。これまで袋の内側だった“この宇宙”は袋の外側に来て、これまで袋の外側だった“世界の果て”は袋の内側になります。つまり「世界の果ては(袋の中に)折りたたまれて、世界の内側にもぐりこんでいる」状態になるのです。
カミツレさんの考察、今作への理解が大変に役立ちました。
その上で生じた疑問点があります。酔酔ってるんで要領を得ない文章になるかもしれませんがご了承願います。
〈海〉とはこの世の果てで、世界が折り畳まれているポイントであるとします。
つまり巾着袋の裏返された入り口であると。
しかし今作では〈海〉は塞がねばならない世界の穴だというように語られています。
しかし世界が折り畳まれたものなのであれば、その折り畳み口は必ずどこかにあるはずです。
そこを塞いでしまったら、世界には果てはなく、風船の内側のように、果てなく完結してる世界になってしまうと思うんです。
そうではなく、世界の果て、そこに至る道こそペンギンハイウェイ。
その道を辿り、いつか世界の果てに辿り着き、お姉さんと再会する。その決意がエピローグでのアオヤマ君のモノローグであったと思います。
そこの矛盾点はなんなんだろうかと。
ちなみに原作は未読です。こんど読んでみようとおもいます。
レンロキさん、コメントありがとうございます。
こんな長ったらしいレビューをコメント欄まで読んでくださり、お褒めの言葉までいただけるなんて恐縮です。
ただ、レンロキさんが作品の魅力を再確認し、あらためて映画に興味をもっていただけたのなら何よりです。レビューを書いた身として、これ以上うれしいことはありません。
アオヤマ君のノートは、劇場版パンフレットの方で全て見ることができます。
〈海〉が消失し、お姉さんと別れた後、アオヤマ君が世界の果てに向け、具体的にどのような研究をしていくつもりなのかも、そちらに書いてあるのでオススメですよ。
私は、映画→小説(→ここでレビューを書く)→映画という流れで『ペンギン・ハイウェイ』を鑑賞しました。
2回目の鑑賞時は、小説版との違いに注目しながら観ましたが、終盤からエピローグにかけて、原作小説にはないお姉さんのセリフがいくつか出てくるんですよね。しかも、それらのセリフがことごとく素晴らしいんです!どんなセリフが足されているか、ぜひ劇場でご確認ください。
僭越ながら頂いたコメントを辿って参りました。
カミツレさんの考察・分析が大変分かりやすく、改めてこの作品の魅力を再確認させて頂きました!
特に「再構成」と「映像化」の項は目から鱗です。
私は映画は数ヵ月に一本みる程度でど素人なのですが、なぜこの作品が原作の世界観、独特の文章の味まで失うことなく感じとることが出来たのかを自分で整理するのに大変参考になりました。
アオヤマ君のノート、映画の重要な要素として見落としてましたが間違いなくこの作品を彩る鍵ですよね。
カミツレさんのお陰でもう一度この映画を見るとより一層楽しめそうです。
コメント失礼しました。
まさに我が意を得たり!です。
その「言語化出来ないこと」の輪郭をつかもうと、私はこれだけ長文のレビューを書いているのかもしれません。どれだけ言葉を尽くしても、上手く表現できずにこぼれ落ちてしまう部分が残る──そんな作品が私は好きです。
こちらこそ、示唆に富んだご意見をいただき、ありがとうございました。
何事も理解するためには言語化が必要だけれども、言語化出来ないことを何かに化体したり、仮託することが物語の存在する意味だとも言えるのかもしれません。そして、受け止める人それぞれの中に何か腑に落ちるものがあれば、それがその人にとってのペンギン・ハイウェイということのような気がしてきました。
大いなるヒントをいただき、ありがとうございます。
トイレで用を足す時、ついつい〝前〟と〝後〟の体重を比べてしまう、ただの映画好きな小市民です。
カミツレさんの真摯でフェアな姿勢の論評を楽しみにしておりますので、ゾンビに襲われても『書くのを止めるな』とエールを送りますからね。
>お姉さん、ペンギン、少年…、これらは一体何物の記号或いは象徴なのだろう?
一応、私なりに考えたことはあるのですが、ここで明言することは避けたいと思います。
そもそも、はっきりと言語化できるようなことでもないと思いますので……。
ただ、そのヒントになると思われることだけ、いくつかピックアップしてみますね。
〇お姉さん
・アオヤマ君にとっての、抜歯という身体的なイニシエーションと、別離という精神的なイニシエーションの両方に関わっている。抜歯の場面では同時に、アオヤマ君を大いなる謎に誘う役割も担っている。
・お姉さんといえば“おっぱい”であるが、〈海〉の内部でアオヤマ君とお姉さんが上陸する島が、よく見るとおっぱいの形になっている。
〇ペンギンと少年(アオヤマ君)
・最初の方の歯科医院の待合室の場面で、お姉さんが、雑誌にのっているペンギンの写真を眺めながら「これ、ちょっと君に似てるねえ」と言っている。
・雑誌のインタビューで、原作者の森見登美彦さんが、ペンギン自体というより「ペンギン・ハイウェイ」という言葉から作品のイメージを広げていった、とおっしゃっている。
・一度〈海〉の内部まで進入し、最終的には帰ってきたレゴブロック製の探査船に、アオヤマ君たちは「ペンギン号」と名付けている。
琥珀さん、コメントありがとうございます。
>宇宙の全ての星を合計しても宇宙全体の質量の4%?らしい
こういう話を聞くと、なんだかワクワクしますね♪
ダークマター仮説、とても興味深いです。
ひょっとして、琥珀さんはそういった分野の専門の方ですか?
それとも、(私と同じで)SFファンなのでしょうか?
>トム・クルーズがいつも走っているように。
まさか、ここでトム・クルーズの名前が出てくるとは……(笑)
『フォールアウト』は、レビューは書いていませんが、個人的には大満足でした。
たしかに、イーサン(トム)は一生懸命“体を動かすこと”の素敵さを体現していて、
アオヤマ君は一生懸命“頭を働かせること”の素敵さを体現している主人公かもしれません。
カミツレさんの分析を拝読しているとこの作品の魅力が一層深まりますね。自分の持っている僅かな知見と想像力を最大限に発揮しても尚及ばないことを承知で、お姉さん、ペンギン、少年…、これらは一体何物の記号或いは象徴なのだろう?と考え続けさせられます。
人類が解明した質量(宇宙の全ての星を合計しても宇宙全体の質量の4%?らしい)とは別の未知のダークマターとかの質量がペンギンエネルギーの正体かもしれません。アオヤマ君が世界を知れば知るほど、分からないことへの探究心が深まり、想像力(仮説構築力)が増す。
この想像力こそがお姉さんに象徴される『喪失感』を乗り越える現実的な力となるのだと思います。
『怒らないし、泣かない』アオヤマ君はいつも考えているのですね、トム・クルーズがいつも走っているように。
〇作中で明らかにされていないこと(人間に理解できない領域)
アオヤマ君は〈海〉の本質について、「この世界に空いた穴である」という仮説を立てましたが、それ以外のことはほとんど何も分かっていません。
「プロミネンス」をはじめとした〈海〉が見せる数々の現象のメカニズムは謎のままですし、〈海〉がどのようにして生じたのかも分かりません。
〈海〉が消失した今となっては、人類が世界の果てまで行く方法も完全に失われてしまいました。
ペンギンやお姉さんがどのような存在であり、どうやって生まれたのかも分からないままです。
世界の果てまで到達した何らかの知性体が作り出した“装置”のようなものかもしれませんし、あるいは、外側の世界にはじめから存在する一種の“システム”のようなものかもしれません。
だから、〈海〉の消失後、お姉さんがまだ存在しているかどうかもはっきりしません。
「世界の果てを見るのはかなしいことでもある」
ひょっとしたら、世界の果てを見ることで、お姉さんの不在を証明してしまうことになるかもしれません。
しかし裏を返せば、分からないからこそ、お姉さんが存在している可能性もまだ残されているということです。
以上、映画と小説から読み解いた内容に、一部私なりの考察を加えてまとめてみました。
ただし、宇宙物理学や相対性理論については全くの専門外ですので(そもそも私は文系です)、分かりにくい部分や間違えも当然あると思います。お気付きの点がありましたら、教えていただければ幸いです。
〇ペンギンとお姉さんの役割
ペンギンたちは〈海〉をこわし、小さくしますが、〈海〉とは世界のやぶけてこわれた部分なので、正しくは〈海〉という穴をふさぎ、世界を修復しているのです。
お姉さんの役割は、そのペンギンたちを作り出すことです。彼女は人間ではありません。ペンギンたちと同じように、ペンギン・エネルギーで生きています。
ペンギンとお姉さんが〈海〉を消すための存在だとすると、その活動の源であるペンギン・エネルギーは、〈海〉自体から送られてくるというより、〈海〉を通じて世界の果てから送られてくると考えた方が自然だと思います。
お姉さんは、修復者であるペンギンを作り出しますが、ペンギンの天敵であるジャバウォックも生み出します。これは一見矛盾しているように思えますが、
「私なりにこの世界に未練でもあったのかね」
〈海〉が完全に消失すると、その〈海〉を消すための存在である自分も消えてしまうから、お姉さんは、ペンギンたちの活動を阻害するジャバウォックを生み出したのではないでしょうか。
〇〈海〉とは何か
アオヤマ君の言葉を借りるならば、〈海〉とは「この世界に空いた穴」です。
〈海〉の周囲では時空が歪み、例えばアオヤマ君たちがプロジェクト・アマゾンで探検した川が同じ場所を無限に循環しているように、物理的にあり得ないことが起こります。
〈海〉はこの世界に存在してはいけないもの、この世界のやぶけてこわれた部分であり、その穴が人間には〈海〉のように見えるのです。
ここで、アオヤマ君のお父さんの“巾着袋を用いた説明”を思い出してください。袋をひっくり返すと、これまで袋の外側だった部分は内側になります。
「世界の果ては折りたたまれて、世界の内側にもぐりこんでいる」
ひょっとしたら、世界の果ては遠く遠く宇宙の果てにあるのではなく、小さく折りたたまれて、私たちのすぐ近くにあるかもしれない──それが〈海〉なのです。
〈海〉を我々に馴染みのある言葉に置き換えるなら、「ブラックホール」や「ワームホール」が近いかと思います(厳密には異なりますが)。
おそらく何らかの知性体によって作られた“装置”のようなものというよりは、自然発生的にこの世界に生じた“バグ”のようなものではないかと考えられます。
物語の終盤、アオヤマ君とお姉さんは〈海〉の中に入り、世界の果てと思しき場所にたどり着きます。この場所は、この世界と“外側の世界”との間の境界線に当たるのではないかと思います。だから、「世界の淵」と言い換えてもいいでしょう。
私がイメージしたのは、物理学・相対性理論で言うところの「事象の地平面」です。「事象の地平面」は、クリストファー・ノーラン監督の『インター・ステラー』でも出てきましたね。
➂アオヤマ君のモノローグを大幅にカット
原作小説はアオヤマ君の一人称で物語が進んでいきます。そのため、極端な話、会話文以外の地の文は全てアオヤマ君のモノローグになっているとも言えます。その語り口に彼のキャラクターがよく表れているので、映像化に当たってもモノローグを多用したくなるところですが、本作では全編にわたってモノローグが大幅にカットされています。
しかし、説明不足だと感じる部分はほとんどありません。言葉で説明する代わりに、映像できちんと表現できているからです。例えばそれは、上に挙げたような「アオヤマ君のノート」であったり、背景美術であったりします。これは、小説をアニメに“再構成”する上で、至極真っ当なやり方だと思います。小説は文章、アニメは映像と表現の媒体が異なるため、当然それぞれに適した表現の方法があるはずですから。
モノローグを大幅にカットしたことで、ストーリーのテンポがとても良くなっています。また、厳選されたことで、数少ないモノローグのセリフが印象に残りやすくなっているところも、作品にとってプラスに働いていると思います。
➁背景美術が「アオヤマ君から見た世界」を見事に再現している。
原作小説では、アオヤマ君の一人称視点を通じて、街の風景や街の中の様々な場所の様子が描写されます。例えば、アオヤマ君は自分が住む街を次のように表現しています。
ぼくが住んでいるのは、郊外の街である。丘がなだらかに続いて、小さな家がたくさんある。駅から遠ざかるにつれて街は新しくなり、レゴブロックで作ったようなかわいくて明るい色の家が多くなる。天気の良い日は、街全体がぴかぴかして、甘いお菓子の詰め合わせのようだ。
そこには、客観的な物の見方とともに、小学生の男の子らしい空想が入り交じっていて、色彩感覚もとても豊かです。これらの描写はただ視覚的な情報を伝えるだけでなく、アオヤマ君から見た“世界”を表現しています。だから、背景を描くということは、間接的にアオヤマ君という人物を描くことでもあります。
研究室(自室)や歯科医院、海辺のカフェなどの彼が大好きな場所。その内装や、その場に置いてある様々なアイテムに至るまで、丁寧に作り込まれた背景を見て、「アオヤマ君の目に世界はこんな風に見えているのか!」と感動しました。また、街の全景を俯瞰で映したショットも素晴らしいです。なるほど、「街全体がぴかぴかして、甘いお菓子の詰め合わせのよう」です。
〇原作小説との比較:「映像化」と「再構成」
原作小説と比べてみることで、本作がいかに小説版の「映像化」という意味でも「再構成」という意味でも上手く作られているかが分かります。以下に本作が長編アニメ映画として優れていると感じた部分を挙げていきます。
➀アオヤマ君のノートをきちんと再現して見せている。
アオヤマ君は、自分が知ったこと、考えたこと、体験したことを全てノートに記録しています。それを見ることで、彼の思考の流れが一目で分かりますし、そこには、彼の科学者としての態度がよく表れています。大げさに聞こえるかもしれませんが、ノートはアオヤマ君そのものであり、彼の全てだと言っても過言ではありません。だからこそ、そのノートをきちんと映像で再現することはとても大事だと思うのです。
ノートの文字の感じも丁度よく、いかにも頭脳明晰な小学4年生の男の子が書きそうな文字になっているのが素晴らしいです。彼の真面目さ、丁寧さがよく表現されていると思います。