劇場公開日 2018年7月7日

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「ハマりすぎにご注意を!」縄文にハマる人々 fuhgetsuさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0ハマりすぎにご注意を!

2018年9月1日
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鑑賞方法:映画館

今池のシネマテークにて。
縄文にハマりすぎのわたしが図らずも期待せずに観に行った「縄文にハマる人々」が、なかなかよくて困った。
ハマるなんてタイトル、軽々しく茶化してるのかと思いきや、縄文の一部分だけクローズアップして迫るものでもなく、ぼんやり中途半端だったり一方的な押しつけで終わるでもなく、そこは縄文らしく全体像を俯瞰しつつどこまでも中庸なつくりの映画でよかった。
監督の岡山信貴氏の、縄文素人でありながら、なぜかひきつけられる縄文の魅力を、あらゆる人物のインタビューや博物館や遺跡巡りをしながら、映画のゴールを決めずにカメラをまわしはじめて流れに任せて進めていった結果のようですが、その答えのない世界に答えを求めず幅広く見ていこうとする姿勢が、そのまま自分のやってることに近かったからか、うんうん頷いたり思わず失笑したり、同じように幅広く人の意見をきくことができてよかった。
なるほどと納得する言葉や考え方にも出会えたし、何言ってるのかちんぷんかんぷんな人がいても、その人が到達した縄文はそれはそれで素晴らしい、多様性のゆるやかな世界。
映画を観る前情報で、いとうせいこうやデニスバンクスが出演というのを知り、だから観てみたいという気持ちと、有名どころで塗り固めたお洒落な映画だったらやだなぁとも勘ぐってたら、どの有名人だろうと素人だろうと平等扱いのたくさんのうちの一人だったので安心して観れたのです。
そして、映画館に着いた受付で一番に目に飛び込んできたのが、昨夜の「神殺し・縄文」の文庫版と、さらに尾張名古屋が誇る #縄文うずまき の大谷幸市さんの本が平積みされていて、大谷さん本人も出演してることを直前情報として知り嬉しくなりました。
それで上映がはじまってすぐの冒頭から三人目のインタビューで早くも大谷さん登場。
最近お元気になさってるか気がかりでしたが、映像はかなり前のものでした。
なななんと、見覚えのある会場風景。
数年前の「縄文大爆発」出版記念講演会、わたしも行きましたよ行きました。
あれれ写ってるよ、変な人が一人。
なんとわたしも知らないうちに映画デビューしてました!
当時、記録用と思ってたカメラが映画撮影だったとはまったく気づきませんでした。(今調べたら2015年1月だった…)
それはいいとして、多様性の切り口で見せていき、結局答えはわからないというもってき方は、この縄文に関して言えばそうならざるを得ないと同感してます。
同時代の同じ環境でさらに同じマインドでなければ、現代社会でいくら想像や妄想を豊かに膨らませても、違う価値観に支配されたままでは本質から遠ざかる一方。
であるなら、わからないのが正解だし、わからないなりにわかろうとするところにある種の魅力があるわけで、無視できない素通りできないワクワクドキドキ感こそが正解なのだろう。
当時も一定の価値観や枠におさまらず、宇宙やあらゆる生命がそうであるように絶えず変化していたに違いない。
常識に囚われたわたしたちこそ、その価値観を何度もぶち壊さなければ前に進めないように。
そういった前向きな破壊と再生、失って久しい生と死のリアリズムみたいなものを感じられる縄文の謎な世界に魅力されているともいえる。
そんなことも、様々な意見を一気にきいたからこそ、自分自身が感じてきた縄文観をより明確にしてくれたように思う。
現代社会から1万年遡るのは時間だけの問題じゃなく、当時の宗教観とか精神性がどうであったかのかが問われてるけど、孤独に野生の生活をしたところで当時の共生社会の価値観には至らないし、世界中の先住民が縄文的な文明に辿り着いたわけでもない。
そこで思うのは、文字のない多様性の循環型社会を1万年もつづいたのは女性性が優位だったからという点。
それは同じホモサピエンスサピエンスで同じ脳を持ちながら、右脳が優位に働いていた文明だったということ。
マインドといった思考そのものや、計算したり効率や管理から支配といったヒエラルキーに縛られず、ありのままの世界を、この4次元宇宙を、右脳で感じる言語化できない大自然の、大地が噴火する姿や大地が春に芽吹くエネルギーを純粋に受け止め、どうしようもなく湧き上がるこの感動を、大地の一部を使った立体造形に転写するという技術に優れていたことに尽きると思うのです。
‪それで、このカタチを言葉以上に伝えて共有し合う手段という側面から見れば、ある人がつくったカタチに共感する人が次から次へとわたしもそう思う的な作風が広がると一つの体系として火焔土器や遮光器土偶のように広がったり。‬
完成形を目指して何か意味を持たせて造形するのではなく、元々はみなそれぞれの中にある宇宙観を、具象化すると自然のバランスが崩れるから、右脳で感じた宇宙エネルギーを土器や土偶に転写する感じで創造しつづけたんだと思う。
それが世界中でなく、日本独自で発展した理由とは。
だとしても、縄文ってすごいとか、日本人ってすごいじゃんとすぐに飛びついてそこに留まり、世界を見下すようなことになれば本末転倒。
日本人や縄文人が特別優れていたからではなく、日本という土壌がプレート銀座で噴火に地震に台風ありの地球規模で要のポイントにあり、その結果生み出される大自然のエネルギーやら恩恵を豊かに受け取ることが出来たからこそ、右脳で女性性の感性を豊かに育てた縄文文明が地球にとって最も豊かな文明社会を維持できることにつながった結果だと思う。
海外からも評価の高い縄文文明。
万博で岡本太郎が広めたとはいえ、日本はどんどん真逆な方向に向かったままの現代。
その血が僅かでも残り、遺伝子として受け継がれているわたしたちしか、この縄文をより深く理解することは出来ないし、理解出来ずとも、戦争のない平和な新しい文明社会を、日本が先頭に立ってリードしていかなければならないと思います。
そして話は最初に戻るけど、縄文って言葉も捨てちゃいたい。
時代区分として植えつけられた価値観に縛られないためにも、弥生ってのも嫌だ。
右脳時代と、それ以降現在までが左脳時代だとして。
縄文ワクワク縄文ドキドキのこの時代にふさわしいのは、文字化されないワクワク時代とかドキドキ時代とか、意味わかんない系の名称にするべきだと思うのだが。
ハマりすぎにも注意しないといけません。
長文駄文で失礼しました。

fuhgetsu