嵐電のレビュー・感想・評価
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悪い人が出てこない映画
見終わった感想は、タイトルにつきるかな。最初のミュージカル風なセリフ?歌声?からファンタジーなんだなと思い、そういう目線で観ることができました。
嵐電江ノ電地元の方、嵐電江ノ電好きな方には素晴らしい映画だろうと思います。
井浦新さんが最初に登場するシーンが流石の雰囲気で早くもこの映画のピークでした。
狐と狸の夫婦漫才は自然で楽しく、東北弁を巧みに操る高校生?が出るシーンは演劇的な作りで映画の流れがいちいち止まってしまうし方言を素晴らしく使いこなせてて凄いのですが、方言全然わからない!て部分もありました。滑舌悪いのか?もしくはこちらの耳がわるいのか?そういう伝わらなさ、言葉や振る舞いの差異を感じさせるのも意図したことなのかもしれません。8ミリカメラで嵐電を追う男の子が、好きなものを撮影していたはずなのに撮影したものを好きになってると取り乱す部分、最初そういうことあるなと思ったんですが、思い直して、
今の世の中全体がそういうふうに無意識に無批判無検討に流されてばかりなんじゃないか、と、気になりました。目につくものを好きに慣らされてないか、好きと誤魔化したり誤魔化されてないかと。
とにかく悪い人が出てこない映画(=違和感)だけど皆勝手に生きて勝手に自分の気持ちを押し付けようとしてる。してないフリの人も然り。悪い人いないし悪いこともしてないけどみんな独りよがり。そのことに自覚的なのは人ではなく2つと狸の夫婦だけ、いうことで。
☆☆☆★★ 変わらないモノ 変わり行くモノ スクリーンを眺めながら...
☆☆☆★★
変わらないモノ 変わり行くモノ
スクリーンを眺めながら。嗚呼!これはきっと、俳優の彼と嘉子(過去に掛けている名前なのだろうか?)は、若き日の井浦新と奥さん(どうやら腰の悪い地元出身)の出会いの日々をシンクロさせているのだろう?…と思いながら見つめていた。
だが…。
* 1 映画の終盤で、助監らしき女の子の「映画に出て下さい」の一言で、ちょっとまてよ!…となった。
「あれ?ちょっと思っていたのと違って来てる」
大体、最後の方の上映会で。若い頃の嘉子が映っているのだけど。元々それはマスター曰く、嘉子のお父さんが撮った映像の筈。
でも映画の中で、それを8ミリで撮っているのは地元の嵐電マニアの男の子なのだ!
その男の子の役名が 《子午線》
ちょっとまて!《子午線》って…。
どうしても舞台の「子午線の祀り」を思い出す。
舞台自体は観た事は無いので、此処で少しググってみる。
子午線とは天文学用語だが、子午線の祀りは源氏と平家の源平合戦の果ての悲劇。何故だかキーワードとして【宇宙的】と出て来る。
そう言えば、青森弁の女の子の役名は《北門南天》
う〜ん(´-`)ありえね〜名前だ〜。
あ?井浦新は鎌倉から来たって設定だし、役名も《平岡衛星》って。平家の一文字が入っているし…偶然とは思えないぞ(・・?)
そんなこんなと映画全体で、過去や現在であったり。亡霊や妖怪。宇宙的な思いに人間の記憶と妄想等。実態の朧げなモノに対し、監督が持っているであろう拘りの様な感覚をほんの少しだけ感じる。
…と書いたところで、どうにもこうにも今一つ伝わらないだろうし。現に書いている自分自身ですら、何を書いているのすら怪しい。
どうにも、映画全編で内包されているモノの確かな事実が、完全に理解出来ないもどかしさは強い。
とは言っても。観た事で、時間やお金を損した…等とは全く思わない。寧ろ、1度観ただけでは理解しきれなかった映画などは、過去にも沢山有ったし。寧ろ名作と言われる作品程、公開直後はボロクソに言われる作品は多い。
(別にこの作品が名作とも思いきれないのだが)
この作品を読み解く鍵として、やはり鈴木監督の過去に撮った作品を参考としない訳にはいかないのだと思う。
この作品の序盤にこんな場面が有った。
井浦新が電話をしているのだが。カメラはその彼の左側にゆっくりとパンをすると、そこには電話相手の妻が寝ている。
鈴木監督作品としては。以前に、『私は猫ストーカー』と『ゲゲゲの女房』の2本した観ていないので、確かな事は言えないのですが。確か『私は…』の中で、やはり電話を使い。似た様な場面が有った記憶があるし。『ゲゲゲ…』の設定は古い時代の筈なのに。出演者が、現代の東京を舞台に演じていたり。この『嵐電』では、どうやら修学旅行生は。過去から現代の京都に来ている様だし…と。そんな辺りにも拘りみたいのを感じない訳には行かず。分からない割には見逃せない場面は多かった。
そんな中の一つが、狐と狸の場面で。今一つ分からないところではあるものの。『ゲゲゲ…』の時の2階に住み憑いた疫病神の記憶から、この監督らしさを感じるし。若い2人が台詞合わせをしながら、古い京都の街並みを歩く場面は。『私は…』で、猫を探して歩く姿が。人気の散歩スポット谷根千を探索するのとリンクし、面白く観ていた。
そんな中で、この監督の前前作『ジョッキング渡り鳥』を観逃しているのがちょっと痛い。
伝わって来ているイメージ等からみて、1番関連が近いのでは?と思えるのだけれど…。
いずれにせよ。一見すると、ノスタルジーを感じさせ、取っ付きやすそうに見せつつも。観客に対し、絶えず挑発を誘う。挑戦的な作品の様に見受けられる。
2019年5月29日 テアトル新宿
⁂ 1 公式を見ると、この映画の製作の発端となったのが。プロデューサーが過去に「映画に出てみませんか!」と言われ、何本かの映画に出演した経験があるのだとか。
電光パンタグラフ
映画は観たとなるのが普通だけれど嵐電は体感に近い 三組三様の話と狐&狸に嵐電が混線して これは何?どういうこと?が幾度となくグルグル頭を過る
不思議な浮遊感と路面電車に揺られ 諸所 人々の心情が蠢く
そこに京都の風情が独特の色を添える
きっと人の頭にも見えないパンタグラフが乗っていてそれぞれのレールを走ってる そんな幻想が見えた
鈴木監督によると主人公の目線で撮らずドキュメンタリー調にもしてあるそう
喫茶店 皆が嵐電の古い映像を鑑賞中
音楽でその時代が蘇るように映像もまたその頃を呼び起こす 音も映像も電車も人の心も流れ廻る 変わってしまって時に同じ心だけが取り戻せなくなったとしても
昼寝から目覚めた衛星さんに斗麻子さんは「おかえり」って言う それに答えて衛星さんは「ただいま」と
なんて幸せな昼下がりだろう 斗麻子さんみたいな女性にならんといけへんな
譜雨と嘉子すれ違った線路が交わる二人の足下
でもこの時までもかなりストーリーに釈然とせず納得していなかった
監督が苦情がくると言われてたのも解る(苦笑)
が、エンディングの音楽が流れてきたその瞬間に私のパンタグラフが感知した
線香花火のよに静かに焼け付く切なさを
ちょっぴり泣けた
-------------- もうそれで充分
頭ばかりで考えていたら大切なことを忘れてしまう 悲しいから泣くのではなく泣くから悲しいんだ このこと忘れないようにしたい
結局三組ともハッピーエンドだと思えた 妖怪の魔力に打ち勝てるのは人を想う気持ち
夜の闇には見えない人の心が縦横無尽に飛び交っている 狐と狸にその心狙われないよう御用心
なるほど この作品は
これでいいのだ
観る側の解釈と撮影所の歴史のリスペクト…か?
京都出身なので、やはり生まれ故郷をテーマにしているのは気になる所もあって、鑑賞しました。
で感想はと言うと…悪くないけど、ちょっとほわっとしていながら粗い…かな。
京都の西側に位置し、四条大宮から嵐山まで通る京福電鉄嵐山本線、通称嵐電を舞台にそれぞれの年齢の3つの恋の物語を描いていて、そこにファンタジーが加わってます。
ふんわりとしている作風からか、一応主役は井浦新さん演じる平岡衛星の様ですが、嘉子と譜雨が主に話が進んでいきます。
が、3つの恋物語が進んで行く中でも主とする事が明確でなく最終的に何を描きたいのかが分かり難い。ファンタジーを意図的に絡ませてるのがなんとなくあざとく見える感じがします。
また、ラストのそれぞれの解釈が結構難解でその部分を観る側の解釈に任せると言うのはちょっとズルいかなとw
それをやられると作品の評価の大半を観る側の委ねると同時に責任の放棄にも感じるのであんまり好きではないんですよね。
それでも一言でダメと言ってしまうのはちょっと個人的な好みに偏ってしまうのと、極端過ぎる所があるので出来るだけ一方的な評価はしない様にしたいとは思うのですが、その部分を昇華出来たのは、上映後のトークショー。
全くトークショーを意識してなかったのですが、あるなら観ていくかぐらいの気持ちだったぐらいの偶然w
監督の鈴木卓爾さんとゲストの片桐はいりさん(出演はしていないそうですw)のトークショーでいろんな話を聞けてある程度は消化出来たりしたんですが、それでも演劇的な部分もあり、曖昧な部分も多々あります。
嵐電に纏わる不思議な逸話(都市伝説)の狐と狸の車掌や高校生の南天が修学旅行で京都に訪れた際の一目惚れやその後の家出なんかはふんわりし過ぎてるんですよね。
それでも他府県の方が感じる京都と言う街は何処かオリエンタルミステリーなイメージもあるらしく、そう言う風に描きたくなる何かがあるみたいです。
いろんな解釈を観ている際に張り巡らしていたけど、トークショーの時に監督の話を聞いて、なんとなく腑に落ちた様に感じたのは電車好きの高校生、子午線がスマホ時代の今に何故アナログな8ミリカメラで嵐電を撮影していたのかは、嵐電の歴史は撮影所の歴史でもあり、太秦撮影所と嵐電は切っても切り離せない関係からのリスペクトなのではないかなと。
そう考えると狐と狸が車掌の嵐電の都市伝説は映画が1つの段階を上がる時に空想をスクリーンで現実として写し出す事が出来る映画の醍醐味を表しているのではないかなと。
些かこじつけ的ではありますが、鈴木監督が観る側の解釈に任せると公言したのもそういった伏線の設定を絡ませているからなのかと思いました。
京都出身ではない鈴木卓爾監督が何故嵐電を舞台にしたのかも鈴木監督なりの映画へのリスペクトなのかな~と思ったら、ちょっと納得出来たかな。
それでもざっくりしているし、何処か曖昧な粗さもあります。
観る人を選ぶ作品でもありますし、お世辞にも大作ではないです。
電車をテーマにしている作品で今から8年前に公開された「阪急電車 片道15分の奇跡」ほど分かりやすくもないです。
それでも柔らかな作風と嵐電からの数少ない路面電車の風景は心地好い物があります。
観光地の京都の風景も少ない分、地元に密着した風景が多いのも好感が持てます。
京都の人間には何処か牽かれる物があったも、多分不満もあると思いますw
それでも何処か未完成の様な粗さを楽しめるのも監督の意図なのかと解釈w
明確な答えを求めるのではなく、たまにはこういったいろんな解釈が想定されている作品を鑑賞するのも良いかと思えば、これはこれで有りかなw
嵐電と嵐電沿線に思いを馳せる事が出来る人には興味の引く作品かと思いますので、敢えて監督の手のひらに乗っかってみるのも良いかと思いますw
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