「まずしい」ここは退屈迎えに来て 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
まずしい
日本人が知っている風景がある。国道もしくは主要線の両側に、すき家吉野屋サイゼリアくるまやかつや丸亀スシロー王将などが居並ぶ風景だ。三浦展の「ファスト風土」を、そのまま体現している。
10年ほど前、会社に出入りするコンサルタントの指南で何人かのアナリストを読んだなかに「下流同盟―格差社会とファスト風土」という本があった。三浦展の2006年の著作である。わたしはぜんぜん社会派ではないので内容は置くが、そこに何度か行ったことのある太田市が取り上げられ、00年代の初頭から数年で駅周辺が風俗店に侵食されたことが書かれていた。
山内マリコの小説「ここは退屈迎えに来て」の巻末にも参考文献として、三浦展の別の本が記載されている。
地方人なら誰もが知っていることだが、きょうび商店街は、ことごとくシャッター街に変容している。
縁が土地勘を形成するので、居住地と仕事によって個人的に知り得るエリアは北陸信越東北だが、新潟仙台に都市形成を見るものの、他はどこも死んだような街である。中核都市といえども、観光資源を除けば空き地や空きビル、居抜きや売り家、頓挫したバイパス、使われてないのに更地にも壊せもしない賃貸物件や商用施設が、永遠にない入店や開発を待っている。そしてファスト風土。車窓から見えるのはそんな寂れた風景だけで、人に会うのはイオンの中だけだ。
この国の地方はすべて人知れぬ土地だと思う。
外国人と話すとわかる。かれらは東京や京都や大阪や北海道を知っている。人によっては日本人は全員東京に住んでいると信じている。だからPrefectureを言うのをためらいアバウトザミドルオブジャパンとでも言っておく。大陸の距離感にあわせるなら、本州のどこであろうと「東京の近く」でも不親切にはならない。
どことも知れない地方にいると、人は帰属を見失う。
日本人が「東京の私」でないなら、もはやどこの誰やらわからない。
山内マリコの「ここは退屈迎えに来て」はそんな地方人の溜め息である。その溜め息に、モラトリアムが絡んでくる。やるせない地方で、そこはかとない夢のようなものを追っている──追っているというより夢見ている人たちの点景である。
わたしにとっては珍しく原作を読んだことのある小説の映画化だった。が、門脇麦が茫漠とした地方的風景のなかで「だれかー!だれでもいいんだけどー!」と絶叫している予告編を見ただけで、もうお腹がいっぱいになった。ことは覚えていた。
小説はエピソードの羅列の趣きで、あまり一貫せず、性的でもあった。東京への未練、地方人の身を焼くような髀肉の嘆が描かれていた。
若い女子向けに書かれている──と思うのだが、なんらかの理由でUターンした20代が抱えているであろう煩悶が矢となって飛んでくる。それに刺さる共感はあってもラブストーリーに共感するような甘露はない。
かれらは過去や、なにかが違う自分の世界に、敗北ではない解釈を付与しようとして、ことごとく失敗し続ける。
そんな地方人の卑下の咆哮がそのままタイトルここは退屈迎えに来てになっているのだが、小説はこんなにクサくはない。この映画はクサすぎて見られたものではないが、小説は現象を放っていただけだったように思う。
小説を読み、見慣れたファスト風土を延々眺める運転シーンだらけの拷問のような映画を見て、日本人は地元に諦めか憎しみしか持っていないことを痛感する。
レディバードのサクラメントが夢のような土地に見えるのも当たり前なのである。日本にいい映画がないと、わたしもよく言うが、そもそもいい映画ができる土壌がない。──牽強付会でもあるが、なんかもう、つくづくそれを感じさせる映画だった。