「相手の心がわからないが故に小説を書く男」男と女、モントーク岬で りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
相手の心がわからないが故に小説を書く男
ベルリン在住の中年人気作家マックス・ゾーン(ステラン・スカルスガルド)は、新作のプロモーションのために十数年ぶりにニューヨークにやって来た。
彼は、この地で恋に落ちた女性クララ(ニーナ・ホス)のことが忘れられず、新作でも彼女との恋愛のことを綴っていた。
出版社のスタッフの尽力で、クララは現在、弁護士として活躍していることがわかり、彼女の仕事場を訪ねるが、彼女は素気(すげ)無い。
マックスは、友人から手に入れた住所をもとに、読書会の後のパーティの後、酔った勢いで彼女の自宅を訪ねるが、やはり態よく追い返されてしまう。
が、後日、クララの方から、マックスを「想い出の地」であるモントークへ誘う連絡がくる。
恋人のある身ながらも、再びクララとよりを戻せるのではないかと思ったマックスであったが、彼にとっては予想外の展開を迎える・・・
といったハナシで、早い話が、恋愛に対する男女の差、それも過去に対しての男女の差を描いた物語。
この手の映画はよくあるので、ストーリー展開云々は興味の埒外。
男女のキャラクターがどれだけ描き込まれれているかが、観る側としての興味の焦点ということになるだろう。
という意味では、まぁ、散々ぱら描かれてきた男女像と、そう大差はなく、男は過去の恋愛を引きずり(というか、あわよくばもう一度・・・といった思いを持って)、女にはそんな思いはない、ということなる。
なので、新味はないのだけれど、興味深いのは主人公マックスが小説家(それも体験に基づいた純文学の小説家)ということ。
とにかく彼は、クララの心がわからない。
気持ちがわからない。
彼自身が、自己本位で身勝手であるがゆえに、わからないのだと思うのだけれど、そういう人物が体験に基づいた純文学を書く、というのが、よくわからない。
書けるのかしらん、とも思う。
が、そこで思い出したのが、エンタテインメント小説の大家スティーヴン・キングの、エンタテインメント小説と純文学との違いを述べた言葉。
エンタテインメント小説は、普通の心情・感情をもった人物が、特異な出来事に遭遇して、その心情・感情を描く。
純文学は、特異な心情・感情をもった人物が、普通の出来事に遭遇して、その心情・感情を描く。
なるほど、である。
この映画でも、マックスと別れてからの出来事・心情を吐露するクララ(それも告白直前にマックスと愛を交わしている)に対して、理解できない旨のマックの表情が何度も挿入され、マックスはクララの心情が理解できない。
彼にとっては、愛を交わしたのだからやり直せる、やり直す契機なのだろうとしか考えられない。
が、彼女にとっては、自分を求めるマックスを一時的に満たし、その上で、自分の心底を聴いてもらいたい、今回の関係はあくまでも一時的なのだ、ということ。
そこのところがマックスにはわからない。
なるほど。
相手の気持ちがわからない・・・
だから、あれは、ほんとうのところ、どうなのだろう、と自身の中で反芻し、間違っていようが何しようが、それを表現する・・・
それが、マックスという作家なのか。
ということが、わかったのは鑑賞後、しばらく経ってから。
観ているうちは、直截的にはわからず、特に前半は退屈、映画が面白くなるのは、ふたりがモントーク岬に行ってからでした。
奥深い映画ではあるのですが、面白いかどうかと問われると・・・
それはまた別のハナシです。