「事件を"リプレイ"する意味」15時17分、パリ行き 神社エールさんの映画レビュー(感想・評価)
事件を"リプレイ"する意味
原作未読。イーストウッド監督作品はいくつか観賞済。
ジャージーボーイズ以降のイーストウッド監督の実在の人物を扱った近年の作品に毎回感銘を受けていたので、この作品も劇場で観なければ!と思い観賞。
結果、今回もイーストウッド監督の「こう撮るか!」と言うアイデアと、それのみの映画にならない見せ方の巧さに感銘を受けると共に、三人の歩んだ道が結果的にあの事件へ導かれていた様に見えるのが、”1つのミスも許さない今の社会”へのメッセージになっているような気がした。
事件発生直前から始まり、少年時代、青年時代、旅行先での事と事件が交錯しながらストーリーが展開していくんだけど、観終わった後に思い返してみると事件解決の要因になった必要最低限のシーンしかないものの”必要最低限を切り貼りしただけ”とは全く思わず、三人の人生(主軸はストーンだけど)を観てきた充足感があった。
イーストウッド監督は最初役者で演じることを想定していながら、結果的に三人の自然な関係性を見て本人達でやる事に決めたらしいけど、自分は予めその情報を知っていて観たので本人達なんだって解った位、”演じる”ではなく彼らの事件へ至るまでの”リプレイ”を観ている様に感じる程、違和感の無い演技だった。
その"リプレイ"感を増しているのは、事件のシーンは主役の三人のみならず実際の列車に乗っていた乗客や、助けに駆けつけた警察官、レスキュー隊員まで本人役として出演させ、実際に事件が起きた車両と同型の車両(しかも貸し切りじゃなく運行中に二両使って!!)で撮影することで本人達が体験したあの状況が自ずとレンズに映ったっていうのもあると思う。
事前にこの作品の評で『事件を追体験する事で、本人達の事件に対するトラウマなどを克服するセラピー的な効果もあるんじゃないか』ってものも見たけれど、映画.comのインタビューを見る限り本人達も出演まで克服出来てはいなかったんだろうな…。
劇中で”自分の人生は運命に導かれている様な気がする”ってセリフがあったけれど、個人的にはそれが事件だけじゃなくその事件を執筆し、イーストウッド監督がその本に目を止め、本人達が本人役で演じること、そして(今後役者になるかわからないけれど)その先の未来へも運命に導かれている様に見えたし、自分も理想的な人生を歩んでいるとは思ってなかったけれど、この作品を観て”いつかはこういう風に人生を振り返られる様になりたい”と思ったなあ…。
もしかしたらイーストウッド監督がこの作品に惹かれたのも、自分もストーンと同じ様な事を思ってきたってのもあるのかな…?
と思ったらこのインタビュー(https://natalie.mu/eiga/pp/1517toparis)で近しい事を言っていて納得。
映画の多くは冒頭の五分間を見ればその作品のテーマ性が描かれているって聞くけど、この作品の場合は冒頭で「あなた方のお子さんは注意欠陥性障害(ADHD)かも知れません。薬品を処方された方がいいのではないですか?」と言われるけど、もし教師に言われるがまま薬品を処方してあの学校に居続けさせてたら三人が出会うことは無かったし、あのテロ事件でもっと多くの犠牲者が出ていたかも知れなかったのを考えると統計学とか一般論で縛り付ける、後からあの時ああすれば良かったんじゃないですか?みたいな、二元論でしか語れない人々はナンセンスだって言う様にも感じられた。
個人的には、もう1つ事前に見たこの作品の評で『旅行先のナイトクラブのシーンをイーストウッド監督はどう思って撮っていたんだろうか』みたいなものがあって、実際のそのシーンを観てみたら確かに(勿論それを知らない人は普通に観るだろうけど)イーストウッド監督がどういう感情で撮っていたのかとても気になるほどはっちゃけてるシーンで、イーストウッド監督の苦々しい顔が浮かんで思わず噴き出しそうになったw