スリー・ビルボードのレビュー・感想・評価
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スリービルボードはフランシス・マクドーマンドが失った娘への愛と理不尽な世の中への怒りを際立った演技で表現する
スリービルボードは
(原題・ミズーリ州・エビング街の外れの3枚の看板・Three Billboards Outside Ebbing, Missouri)
乱暴されて焼かれて死亡した娘の母親が
犯人逮捕に積極的でないミズーリ州の
片田舎の警察の対応に
不満を感じて道路沿いに
3つの看板(スリービルボード)の
1)乱暴されて死亡
2)逮捕はまだか
3)ウィロビー署長は何をしてる・を建てるが
警察と市民から
3つの看板に苦情が出る
膵臓ガンで余命が少ない警察署長の自殺
3つの看板の掲載を行うポスター会社に警察の圧力
3つの看板に火を付ける離婚した昔の夫の警察官
3つの看板の前に突然現れる鹿に娘を思い出して主人公が号泣する
警察署を放火する主人公の窮地を小人の男性がウソを付いて救うなど
ドラマの展開に
色々な起伏があって
予想外の事が次々に起きる
ラストは
娘のアンジェラの殺人犯かどうか不明だが
女性を乱暴して焼き殺したアイダホ州の殺人犯に怒りが燃える
主人公と
警察署長から届いた遺言の
君が必要なのは愛だの手紙で
愛に目覚めた元警官がライフル銃を持って
アイダホ州の殺人犯を見つけに行く未解決のシーンで終わる
主演のフランシス・マクドーマンドが
失った娘への愛と
理不尽で濁(にご)った世の中への怒りを
際立った演技で表現する
これは感動モノなのか?
と思わせて感動ものだった。
たぶん。
いやでもどうだろう…
情報量が多くて整理できない。
すごかった。
まず、犯人は誰なの???
と、そこが気になってしまったものだから後半展開に振り回された…。
「物語の主人公(またはメインキャラ)」なら「主人公だけが持つ冴え渡った勘」があると思っていたのに、蓋を開けてみれば「思い込み」「勘違い」…。ミスリードかよぉ( ´△`)
騙されないぞー!と用心しながら見すぎたせいで、最後も思い込み暴走男女が奇跡の結託なんてできるのか?上げて落とされるのでは?と疑心暗鬼。
たぶん、この映画の見方を間違ってたんだと他の人の感想を見て気づきました。
…今度は素直に優しい気持ちで見ます。
ハラハラして先の読めない映画でした。
アメリカでは復讐の為なら何してもいいの?
公衆の面前で何の罪もない民間人に暴力ふるった警官を逮捕もせずにクビにするだけで野放しにしてしまうのには違和感を感じました。現場にいた放火殺人未遂の容疑者もちゃんと取り調べされてません。新署長ザルすぎます。
アメリカの警察ってリアルにこんな感じなんでしょうか?だとしたら怖すぎる。
「全員、純粋」。ゆえに、玉突き事故が止まらない。
監督氏の敬愛する北野武監督風に言えば「全員、純粋」。
善人も悪人も出てこない。
登場人物は皆、すべて、純粋なだけ。
純粋であるということは、己に忠実であるということ。
つまり、登場人物は只、それぞれの人生を生きているだけなのだ。
そして
純粋すぎて、この物語は、玉突き事故が止まらない。
そう、たとえば
彼は、語らなくてもよかったのだ。けれども、彼は語った。
彼女は、闘わなくてもよかったのだ。けれども、彼女は闘った。
彼は、死ななくてもよかったのだ。けれども、彼は死を選んだ。
彼は、庇わなくてもよかったのだ。けれども嘘をついたついた。
彼は、殴らなくてもよかったのだ。けれども、彼は殴った。
彼は、ぶっかけてもよかったのだ。けれども、彼はストローを刺した。
彼は、燃やさなくてもよかったのだ。けれども、彼は燃やしてしまった。
彼は、直さなくてもよかったのだ。けれども、チャイムを押した。
彼女は、死ななくてもよかったのだ。けれども、彼女は既に、凄惨に亡くなっていた。
この物語は、人が行動するには理由が、原因があるのだと示してくれる。
すべて「一手前」なのだ。
それは正義かもしれないし、気分かもしれないし、偶然かもしれない。社会の所為かもしれない。
それが必然となり、誰かの行動が、誰かを突き動かしてゆく。
本人の意図などお構いなしに。
それを止めることはできない。いや、そもそも、
この映画が始まる前に、この物語は始まっているのだ。
そして、終わらない。
彼と彼女は、ひょっとしたら、殺さなくてもよいのかもしれないし
殺してしまうのかもしれない。
それは彼らの意思かも知れないし、そうでないかも知れない。
これまでもそうやって人間は生きてきたのだろうし
これからも歴史は折れ重なってゆくのだろう。
だから、この物語は終わらない。
この連鎖を終わらせることは出来ない。
この先にはきっと、アキラメにも似た、乾いた未来が待っている。
ただ、、そこまで描かれなかっただけの話だ。
ナニヤラ、モヤッとした終わり方だと感じた人は、
それはきっと、正しい直感を持っている。
なぜなら、それがこの作品のテーマそのものだからだ。
コーエン風な、西部劇風な こってりアメリカンストーリー
コーエンっぽい演出がところどころあって、楽しかったです。
署長のラストのセリフ、頭巾のメッセージ
ディクソンの心の変化
オレンジジュースをあげるシーン
ラストの真剣なんだけど、横ずれしていく展開
すべて、アメリカのディープな感じが伝わってきて、よかったです。
迷走
どのキャラも俗っぽい。
いい意味なら、映画っぽくない。
悪い意味なら、とっちらかってる。
この映画自体がそうだ。
話の軸はあるものの、そこの解決はなく、周囲がドタバタと騒がしい。
本筋と全く関係ない事が、やたらしつこく進行していったり。
そおいうものなのかもしれないが、そおいう時間の流れをかいつまんで脚本というものは出来上がるのではなかろうか?
この脚本から感じるのは「怒れる老婆」である。なぜ彼女がここまで偏屈に頑なに頑固なまでに強くあるのかの背景が終始語られる。
最後の一言だけだよね。
人との邂逅を成し遂げたのは。
それが〆なのだが…なんとも居心地が悪い。
時折「?」と思える表情などもあり、アクションとリアクションが噛み合ってないような気もした。
映画は終わったけど、実際には何にも終わらない作品。
わざわざ映画にせんでもよかろうに。
人物描写が深い名作
娘を殺された母親がいつまでも犯人を逮捕できない警察(署長)に対して意見広告を出したことにより小さな町にまきおこる出来事。
ありがちなステレオタイプ描写にとどまらない名作です。
娘を殺された母親は必ずしも聖人ではない。事件後の言動も極端すぎるし、自分本位です。事件前に至っては、ダメ親の部類でしょう。
被害者遺族の立場が全ての免罪符になるわけではありません。
署長は優しき人格者ですがダメな部下に甘すぎるにが唯一のただし、決定的な欠点です。
その性格が問題を複雑に。
ある警官は純粋過ぎるがゆえに悪にも正義にも染まります。
母親や署長の影響で変わります。
警官役の俳優さん良いですね。
演技も表情も好きです。
この三人を軸に物語は進みますが
思いもよらない方向に。
犯人は不明のまま。
でもそれが全然ストレスにならず。
ラストシーンも素晴らしい。
久しぶりに満点の映画見ました。
期待が大きすぎた?
すごく期待して観に行った。ママ役の人はファーゴ以来でとても懐かしかった。あとウッディハレルソンとサムロックウェルも素晴らしかった。ただ脚本が消化不良な感じがした。署長は冒頭とても傲慢に人物かと思われたが、普通にただのイイ人だったし、膵がん末期のわりには、見た目とても健康そうに見えた。自殺したのも共感できない。最期に苦しむ所を妻に見せたくないっていうのも、そうかな~?粗暴で人種差別する警官が、署長からの手紙で真人間になるのも、強引な展開な気がする。
怒りが怒りを
誰もが見方によって、悪者として誰かの怒りの矛先になる。
憎むべき人がそうでなくなるなど、感情移入を許さないめまぐるしい視点転換が起こって心が忙しかった。人種差別も残る、知り合いばかりの田舎町の閉塞感がまた緊張をあおる。脚本の妙。
これが世の中というものなのだなあ、自分も誰かにとっては……などと思いを馳せた。
あの鼻の下の長い男、サム・ロックウェルが良かったぞ! 毎回違う顔を見せてくれるなあ。
「鹿」の突然の出現が意味するものって何?
愛する娘を凌辱された母親のミルドレッドの異常な怒りと復讐。
フランシス演じるミルドレッドは、愛娘をレイプして殺した人間をどうしたかったのか。
犯人をどうしたかったのかが描かれておらずに、エンドロール。猟銃で殺せば、納得するの?愛娘はかえってくるの?
自分のショップに来たのは犯人ではないのか?なぜ股間を蹴らなかったのか。
彼女は、めったに誰も通らない3枚の看板に警官の日常の「業務怠慢」を掲げ、片田舎に住む市民達を騒がせたいだけ。看板をそこに3枚も要りません。オムツで結構。
もう少し、「娘の死」の捜査が警察に絡んで来れば、よかった。署長さん「がん」で自殺して、遺書にも似た手紙でお涙頂戴のような展開はどうだろうか。市民から慕われていた「署長の自死」により、作品の流れが事件への関心が大きく変わった気もする。
看板のそばにお花を供えたり、突然鹿が現れるのも判らん。どこが釈然としない。が、音楽は、印象的で耳に残った。
ミルドレッドという女性は、やることなすことはスッキリしたけど。
ステレオタイプと
たった3枚の広告が偽善やって生活していた私たちの生活を変えていく。
そんなストーリーを事前に聞いていても、予想できない緊張感のある展開。
暴力的で救いがないように見えるけれど
ステレオタイプにあてはめられた人物たちが、そうではない愛や優しさを見せて進んでいく物語は、実は希望に満ちたものなのかも。
そんな優しいシーンがいくつもあって忘れられない。
例えばオレンジジュース。
例えばワイン。
例えば調査書。
アカデミー賞とるだろうな。いやとってほしい!
怒りの矛先
ただの復讐劇ではない。
むすめを殺された母の怒りは犯人にも守りきれなかった自分にもむいている。
町の警察署長が残した手紙は物語の核になって、皆の怒りや悲しみを沈めているように思える。
最後に穏やかな顔で復讐に向かう母。でもそこには次に進む希望の余韻があった。
この母の強さと信念が凄まじかった。
なかなか良かったです。
鑑賞してから少し時間が開いてからの感想なので、あまりおぼつかないのですが、比較的楽しめた作品だったと思います。
キャストさん達の役作りや芝居はどれも素晴らしかったですし、痛々しさの中にアンバランスなシュールさをうまく溶け込ませて、よりそのシーンにインパクトを持たせる手法も上手くはまっていたように感じます。
焼死体の写真や歯医者さんのシーン等、見た目にも痛々しいシーンは個人的に
苦手なので、観た人によっては軽いトラウマになってしまわないか懸念もあります。 (外画にはよくあるレベル)
ラストは裏切られましたが、まぁ映画の落とし所としては正解かもしれません。安直に事件解決、「報われましたね」でも良かったとは思いますが、よりリアルを追求した構成だったのでしょうか。観る方によっては不完全燃焼だと感じられるかもしれません。かくいう私もその一人です。
多面性という言葉の意味を強く考えさせられる
多面性という言葉の意味を強く考えさせられるし、アイルランド系イギリス人によって描かれるアメリカという、今作そのものがすでに多角的な視点によって成されていて深みを作り出している。
看板の枚数と主要キャストの相関は語られているところだが、個人的には火の使われ方も気になっていて、大火などは映画ではよく扱われる素材なのは言うまでも無いだろう。作中では二度そうしたシーンがあるが、二度目の方は違和感があった。観ていながら二回続けた作りをユニークだと感じていたところ、鑑賞後にそういえば火のシーンはもう一回あったなと思い至る。つまり三度の火が発生していることになる。それは作中では映し出されない火であるが、その火がこの物語の発端になっていることに気がついて、なるほどよく出来た本だなと感心させられる。
一度目の火によってミルドレッドは変わり、その彼女によって作られた看板はウィロビーの死に呼応して燃やされる。その報復としてミルドレッドは警察署を燃やし、ウィロビーによって綴られた三通目の手紙を読んでいたディクソンがその火によって大やけどを負うけれど、レッドの優しさにも触れた彼は成長する。レッドが読んでいた『善人はなかなかいない』においても3という数が通底するということだ。
ウィロビーがミルドレッドに宛てた手紙には「看板のことと自分の死は関係無い」とありながらも当然他人はそう思わないだろうから「殺されるなよ」と忠告しているところなどはタチが悪いとしか言いようが無いが面白い。そして本当にどうしようもないキャラクターばかりだが、ジェームズとミルドレッドが食事をするシーンでは救われる気がした。ジェームズとペネロープの言葉がなければミルドレッドは元夫の脳天をかち割っていただろう。ピーター・ディンクレイジいいよね。とはいえ今作ではミルドレッドが突き進んでいく様が最高で笑えるのだが。
ちなみにディクソンは自分が看板を燃やしたと誤解されてるとは1ミリも思っていない。母親から聞かされたときの反応からもわかる。だからミルドレッドが最後に警察署を燃やしたことを告白しても自分との因果は考えてないだろう。それであの反応。だからもしそこが彼の中でつながった場合、嫌な予感がしないでもない。
掲げられたビルボードとは
マーティン・マクドナー監督作品は今回初。
アカデミー賞ノミネーション速報で、この作品が複数の部門でノミネートしているのを見て「これは早めに観ておかなくては!!」と思い、公開も2月前半なので早速観てきた。
観終わった後、充実した二時間を過ごせたと感じたし、今年のアカデミー賞にノミネートされるのも納得の秀逸な作品だと思った。
予告編を観た時点では、自分の娘がレイプされ殺されると言う残忍な手口の犯罪なので、もっと湿っぽい感じの作品を想像してたんだけれど、主人公のミルドレッドが哀しみよりも犯人への怒り、犯人を捕まえられない警察への怒り(その源は娘を徒歩で行かせてしまった自分の贖罪なんだろうけど)が強く、ミルドレッドが悲しむシーンはあるものの、彼女のタフさが逆に辛さを感じさせて、泣いてる割合はこっちの方が多かった気がする。
ミルドレッドが家にやって来た神父に対して、過去にギャングを縮小させた法律を例に出して、"教会もギャングと対して変わらないのだから、知らぬ存ぜぬでも責任を取らねばならない"と言ったのは『スポットライト』で取り扱われた事件にも関連するのかな?
そのシーンを見た時に未だあの作品を観賞してないことを後悔した。
その時ミルドレッドは教会を例に出したけど、去年のハリウッドの騒動を見ているとハリウッドの事のようにも見える気がする。
中盤のディクソンがエビング広告社に乗り込んでいくワンカットシーンは、技術的に凄い、素晴らしいのは当然として、あの事が起こってしまった後の"ディクソンのやり場のない怒り"を共に体験する、緊張感溢れるシーンだったと思う。
ディクソンは中盤のあるシーンまで耳にイヤホンを着けているけど、それは"人の話に耳を貸さない"って暗喩になっていて、あのシーンをきっかけにイヤホンを外し、変わり始めていく(人の声に耳を貸す)ってのも良い演出だったし、その後のレッドウェルビーとのシーンも"坊主憎けりゃ袈裟まで憎い"ならぬ"坊主憎くも親切を返す"シーンになっていて、昨今SNSの炎上案件を見ていると前者しかいない様な考えにとらわれる中、ウェルビーの行動には思わずウルッと来る、素晴らしいシーンだった。
その全ての演出が上手くいってるのはメインの三人を始め、脇を固める役者陣もノンフィクションかと思うほどの実在性を感じさせてくれる素晴らしい演技もあってこそだし、この作品を観終えると、出て来るキャラクターが人間臭くて好きになってくる最近の作品では珍しい印象の作品だった。
また筋書きだけ聞くとそこまで響かなさそうなストーリーにリアリティや説得力を持たせた脚本や、それをバランス良く配置した監督の手腕も見事だったと思う。
パンフレットの町山さんの評を見て"炎が怒り"であることや、ディクソンが同性愛者だった事に気づいたんだけど、それ以外に通りのビルボードに貼られたメッセージは、今現在観るとSNSの書き込みがバズり、(展開的にも)炎上していく様子にも見えてくる。
感想の中には"看板の表の面と裏の面がある"ってものを見かけるけど、個人的には裏まで見ようとはせず、表面を流し見して叩く、炎上させるって言う現在のSNS社会の我々を批判しているようにも見えてくる。
最後のシーンが途中で終わっているのは、ここまで観てきた観客にはあの二人の往く道を全て映さなくても信用して送り出せるだろう、って意図があると思うんだけど、個人的には今までの話が昨今のアメリカやハリウッドの状態のメタファーで、あのシーンが"現時点の状況"、"ここからどうするかは私たち次第"って言うメタファーにも見えた。
”怒りは怒りを来す”
なんかいろいろと考えさせられる映画でした。
ストーリーの核でもある看板とそのメッセージによってみんなの心に問いかけるという方法はとても巧みでみんなの心に訴えるのに一番効果のあるものだと思う。でもそのメッセージの内容やウィロビー署長に対する気持ちによって反対する街の住人、対して娘を殺された母親の心の叫び、この葛藤が心を締め付ける。この映画の予告を観たときなぜか知らないけどウィロビー署長は悪人だと勝手に思い込んでた自分がいて、実際観たときに凄く良い人間で街の住人が庇う気持ちが凄く伝わりました。だから一層娘を殺された母親とウィロビー署長を想い反対する街の住人との争いが観てて心が痛かったです。そして家族を想い自殺をするウィロビー署長、死ぬ前にそれぞれに宛てた手紙、その手紙によって救われたミルドレッドとディクソン。ウィロビー署長が居たからこその物語の結末だったと思います。本当にウィロビー署長様様でした。最後の犯人が違ったのがちょっと残念でしたが。。
個人的に「怒りは怒りを来す」ってセリフが凄く印象深くて、実際に映画の中でもそういうシーンがあったりしてとても心に残りました。
良い映画でした!
傑作
娘をレイプされ燃やされ殺されたミルドレッドとイラクやシリアの女性達が重なりました。粗暴なディクソンとトランプを支持するラストベルトの男性達が重なりました。この作品の登場人物はアメリカ、そして世界中の『今』を象徴するかの様に怒りに突き動かされています。
劇中「怒りは怒りを来たす」という台詞がでてきますが、ミルドレッドとディクソンの怒りは根本的に異なると思いました。それは、怒りを向ける相手です。ミルドレッドの怒りは、娘を殺され解決しようとしない警察という権力に向けられていますが、ディクソンの怒りはそもそも劣等感であり、自分より弱い者に向けられています。
だけどディクソンが変わったきっかけになったウィロビーからの手紙とオレンジジュースは、こんな自分でも他者から認められたと心から感じたからだと思います。逆を返せば、トランプを選んだアメリカは他者から認められていないと思っている人が多いのではないでしょうか。
レイプ犯の元に向かおうとするラストシーンは、イラク戦争を起こした国家権力に対する強烈な怒りを表している様に感じました。レイプ犯の司令塔は軍隊、つまり強大なアメリカ国家です。ミルドレッドとディクソンに怒りを与えていた根本は身近な人間などではなく、実は強大なアメリカ国家ということなのかも知れません。
この作品を鑑賞して思ったのは、「怒ってはいけない」ということではなく、怒りを向ける先を間違えるなということです。ミルドレッドとディクソンの顔が憎しみから笑顔に変わった時に、「スリー・ビルボード」は間違いなく映画史に残る作品だと確信しました。
怒りが怒りに来す
『RAPED WHILE DYING』 殺されてからなのか、殺されながらなのか、とにかく今作品、社会状況や裏メッセージ的な知識が無いとストーリーの内容が100%理解出来ない構成になっているのである。多分、作品のパンフを読まないと把握できないシーンが大事だったりするのである。例えば、警察署長と部下との関係性に同性愛的な匂いがするところは、シーンでは全然匂わない。しかし、ABBAのチキチータを聴いてるシーンからそれを嗅ぎ取る事とか、相当難解な解釈を要求される作品なのである。
そういう自分だって、上記はネットで知識を得た位で、実際の鑑賞後の感想は、とにかくアメリカ女は怒ってばかり、カルシウム足りないんじゃないかって位、アングリ-なのだってイメージだけ植え付けられたことのみである。まぁただ、きちんと相手を赦す度量の深さや、相手を尊重する事も又、アメリカ人ならではある。今作品、それのメーターが吹っ切っているところがドラマ的なのではあるが・・・
ラスト、母親と部下の元警官が二人でアイダホへレイプ魔を殺しに旅に行く展開での、道中で殺すかどうか考えようとの結論は、或る意味、ハッピーエンドなのかもしれない。なにせそこまではカッとなったら直ぐ行動に移すダイナマイトな連中ばかりだしね・・・
息子や、小人症のメキシコ人の冷静さや優しさの部分を、ラストベルトの連中共は忘れてしまってるんだろうねぇ・・・
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