「掲げられたビルボードとは」スリー・ビルボード 神社エールさんの映画レビュー(感想・評価)
掲げられたビルボードとは
マーティン・マクドナー監督作品は今回初。
アカデミー賞ノミネーション速報で、この作品が複数の部門でノミネートしているのを見て「これは早めに観ておかなくては!!」と思い、公開も2月前半なので早速観てきた。
観終わった後、充実した二時間を過ごせたと感じたし、今年のアカデミー賞にノミネートされるのも納得の秀逸な作品だと思った。
予告編を観た時点では、自分の娘がレイプされ殺されると言う残忍な手口の犯罪なので、もっと湿っぽい感じの作品を想像してたんだけれど、主人公のミルドレッドが哀しみよりも犯人への怒り、犯人を捕まえられない警察への怒り(その源は娘を徒歩で行かせてしまった自分の贖罪なんだろうけど)が強く、ミルドレッドが悲しむシーンはあるものの、彼女のタフさが逆に辛さを感じさせて、泣いてる割合はこっちの方が多かった気がする。
ミルドレッドが家にやって来た神父に対して、過去にギャングを縮小させた法律を例に出して、"教会もギャングと対して変わらないのだから、知らぬ存ぜぬでも責任を取らねばならない"と言ったのは『スポットライト』で取り扱われた事件にも関連するのかな?
そのシーンを見た時に未だあの作品を観賞してないことを後悔した。
その時ミルドレッドは教会を例に出したけど、去年のハリウッドの騒動を見ているとハリウッドの事のようにも見える気がする。
中盤のディクソンがエビング広告社に乗り込んでいくワンカットシーンは、技術的に凄い、素晴らしいのは当然として、あの事が起こってしまった後の"ディクソンのやり場のない怒り"を共に体験する、緊張感溢れるシーンだったと思う。
ディクソンは中盤のあるシーンまで耳にイヤホンを着けているけど、それは"人の話に耳を貸さない"って暗喩になっていて、あのシーンをきっかけにイヤホンを外し、変わり始めていく(人の声に耳を貸す)ってのも良い演出だったし、その後のレッドウェルビーとのシーンも"坊主憎けりゃ袈裟まで憎い"ならぬ"坊主憎くも親切を返す"シーンになっていて、昨今SNSの炎上案件を見ていると前者しかいない様な考えにとらわれる中、ウェルビーの行動には思わずウルッと来る、素晴らしいシーンだった。
その全ての演出が上手くいってるのはメインの三人を始め、脇を固める役者陣もノンフィクションかと思うほどの実在性を感じさせてくれる素晴らしい演技もあってこそだし、この作品を観終えると、出て来るキャラクターが人間臭くて好きになってくる最近の作品では珍しい印象の作品だった。
また筋書きだけ聞くとそこまで響かなさそうなストーリーにリアリティや説得力を持たせた脚本や、それをバランス良く配置した監督の手腕も見事だったと思う。
パンフレットの町山さんの評を見て"炎が怒り"であることや、ディクソンが同性愛者だった事に気づいたんだけど、それ以外に通りのビルボードに貼られたメッセージは、今現在観るとSNSの書き込みがバズり、(展開的にも)炎上していく様子にも見えてくる。
感想の中には"看板の表の面と裏の面がある"ってものを見かけるけど、個人的には裏まで見ようとはせず、表面を流し見して叩く、炎上させるって言う現在のSNS社会の我々を批判しているようにも見えてくる。
最後のシーンが途中で終わっているのは、ここまで観てきた観客にはあの二人の往く道を全て映さなくても信用して送り出せるだろう、って意図があると思うんだけど、個人的には今までの話が昨今のアメリカやハリウッドの状態のメタファーで、あのシーンが"現時点の状況"、"ここからどうするかは私たち次第"って言うメタファーにも見えた。