「「怒りは怒りを来す」」スリー・ビルボード 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
「怒りは怒りを来す」
「怒りは怒りを来す」。作中に出てきた言葉だが、これこそこの映画を端的に表すものだと思う。
きっかけは一人の女性の大きな怒り。娘がレイプされた上に殺害されたことに対する怒り。犯人に対する怒り。犯人を逮捕できない警察への怒り。そして娘を守れなかった自分への怒り。そしてフランシス・マクドーマンド演じる母親がその怒りを3枚のビルボードに掲げたことで、その怒りと悲しみが波紋のように広がって連鎖していく様子が、シリアスドラマとブラック・コメディの間を綱渡りするように描かれていく。あぁフランシス・マクドーマンドの座り切った目が未だ頭から離れない。
警察はおかしな権力を持ち市民を威圧するばかりの無益な存在かもしれない。いくら社会が人権の平等性を訴えても小さな田舎町では通用しない価値観かもしれない。そんな環境の中で、怒りに打ち震え、すっかり目が座ってしまったフランシス・マクドーマンドが行動を起こす。その行く先はひたすら負のループの中を突き進んでいくようなものだった。
この映画を見ていると、怒りが引き寄せるのは怒りしかなく、悲しみが引き寄せるのは更に深みを増した悲しみでしかないのだということを思い知る。まさしく「怒りは怒りを来す」。余命幾許もない保安官を巻き込み悲しみは連鎖し、看板屋の青年を巻き込み怒りはまた連鎖し、差別主義の警察官を巻き込みまたさらに悲しみは連鎖する・・・。事件の解決を望み、希望をかけたはずの3枚のビルボードは怒りと悲しみの連鎖ばかりだという皮肉。残るのは深い傷と、更なる怒り、更なる悲しみだ。
主要な登場人物らを結ぶのは怒りと悲しみによって形成されたか細い線に過ぎない。それなのに、傷つけた人間と傷ついた人間とを結んだ憎しみの糸が、僅かな絆にも似た何かや希望にも似た何かに変わっていく様子をこの映画に感じた。負のループのその渦の中心にある小さな空白が希望の光であってほしい。いやきっとそうかもしれない、と思えるエンディングを私はとても気に入っている。
日本に住んでいて「アメリカ」という国のことを連想するとき、ついついカリフォルニアの青い空やニューヨークの洗練された都会を思い浮かべやすく、延いては自由の国だなんて呼ばれたりするけれど、この映画に描かれたようなアメリカの田舎町に住む人々の暮らしや価値観や概念もまた、アメリカという国が持つ一つの表情であり、紛れもないアメリカの現実なのだということを改めて思い知られたようだった。