「人の世を立ち去って」立ち去った女 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
人の世を立ち去って
30年間無実の罪で刑務所に収監されていた老女が、その元凶となった男に復讐を誓う物語。
老女ははじめから復讐心を抱いていたわけではない。彼女は看守長に告訴しないのかと尋ねられ、今はいい、と答える。それよりは息子の行方のほうが気がかりだった。娘によれば、いくら新聞やラジオに頼んで呼びかけてもらっても、息子は姿を現さなかったという。老女は息子を探す旅に出る。
老女は旅先でさまざまな人々と出会う。彼らはみな社会から零落し、忌避され、惨めな暮らしを送っていた。大家族を抱えるバロット売りの男、てんかん持ちのゲイ、知恵遅れの中年女性。老女は彼らとの交流を経る中で、次第に自分の人生を台無しにした元凶、成金ギャングのロドリゴへの復讐心を募らせていき、それに伴い息子を探すという本来の目的を見失っていく。
ただこれを、貧民に対する老女の連帯意識の増幅過程と断言するのはちょっと憚られる。老女は確かに彼ら社会的弱者に優しさを示すものの、そこには常に一定の距離がある。たとえば彼女はバロット売りの男に幾度となく「バロット食べるか?」と誘われるが、「今はいい」と断ってしまう。彼の子供の食費や医療費を与えることはあっても、彼から何かを受け取ることはない。
てんかん持ちのゲイにしても同じことだ。老女は彼女を介抱し、病院に連れて行きはするものの、彼女のほうから老女に干渉しようとすると、老女はものすごい剣幕で怒鳴り始める。老女の優しさは常に一方向的だ。
おそらく、老女自身もそうした自分の本性を自覚している(散々怒鳴り散らした後でゲイに謝る彼女の姿はまるでよくあるDV彼氏のようだ)。ゆえに彼女は焦っていたんじゃないかと思う。私は誰かと本当に繋がることができるのか?と。思えば獄中で唯一無二の親友だった女も、実は自分が着せられた罪の真犯人だったし、娘は自分が収監されている間一度たりとも面会に来たことがないし、息子は行方不明だし。
このとき、ロドリゴはちょうどいい材料だった。彼は老女の個人的怨恨の対象であると同時に、豪奢に溺れる資本主義の権化、すなわち貧民の真の敵でもあったからだ。同じ敵に同じ熱量の感情を向けることができるなら、そこには本当に対等な関係なるものが成立するのではないか?と老女は希望を抱く。
しかし彼女の計画は壮大な空転を迎えることとなる。てんかん持ちのゲイが彼女の銃を盗み出し、それでロドリゴを撃ち殺したのだ。彼女は「ある人のためにやった」と供述する。そしてその名を決して明かそうとしない。
復讐という唯一の希望を奪われた老女は街を去る。そして今更思い出したかのように行方不明の息子の捜索に本腰を入れ始める。
白い教会の前を彼女がうろつくシーンは示唆的だ。堂々と屹立するマリア像。それはきっと老女自身なのだ。人々に無償の愛を与え続ける聖母。しかし彼女が本当に欲しかったのは、もっと素朴で対等で人間的な繋がりだったことは先述の通りだ。
老女は街中を幽霊のように徘徊する。グルグルといつまでも同じ場所を回り続け、どこにも辿り着くことができない。それは終ぞ人間になれなかった女神に課された悲しい宿命なのだと思う。
アジア映画というと、日本、中国、韓国、台湾、香港、タイ、インド、イランあたりが注目されがちだが、四方田犬彦はフィリピン映画を「近年稀に見る鉱脈」と絶賛した。とはいえフィリピン映画はタイ映画にもまして国内に輸入されてこない。カンヌ・ヴェネツィア・ベルリンといった西洋主義にお墨付きを頂戴しない限り、我々は同じアジアの人々が手がけた作品さえまともに鑑賞することができない。
私が本作を見ることができたのも、もちろん本作がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を射止めたからに他ならない。もちろんそれは僥倖なことなんだけども。