「「超人」と「システム」」ニッポン国VS泉南石綿村 マユキさんの映画レビュー(感想・評価)
「超人」と「システム」
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森達也監督は『FAKE』の舞台挨拶で、筆者の質問に答えて「原一男監督はスーパーマンが好きなんだ」と語っていた。原監督は『ニッポン国―』の上映後トークで、「昭和が終わり、とがった人がいなくなった」と語っていた。「とがった人がいなくなり、今までのやり方では撮れないことに気づくのに何年もかかった。今の世の中はとがった人を認める余裕がない」と。
ドキュメンタリーの方法論は、大きく分けてふたつあると思う。強烈な「個人」に焦点を合わせるか、ある問題を生む「システム」に注目するか、だ。前者の典型が『ゆきゆきて、神軍』なら、後者はフーベルト・ザウパー監督『ダーウィンの悪夢』だろう。ニューギニアの地獄から生還した、不正をただすために時には暴力も辞さない「神軍平等兵」奥崎謙三にカメラを向けた『ゆきゆきて―』。一方、ヴィクトリア湖の巨大魚、ナイルパーチをめぐって生起する貧困や売春を「グローバリゼーションの問題」として描き出す『ダーウィン―』。
原監督は今作で、泉南アスベスト訴訟の原告である被害者や家族、弁護団といった、別段とがってはいない人たちにカメラを向けた。同時に、このアスベスト被害に、アスベスト加工業で経済的に恩恵を受けた社会が冷淡なさまも映し出している。街頭で泣きながら裁判にいたる葛藤を訴える被害者家族の周囲を、足早に通り過ぎる人々。
これからのドキュメンタリーは、おそらく「個人」と「システム」両方を注視しなければならないだろう。高度情報化社会におけるドキュメンタリーは、その「複雑さ」に見合った方法論が求められるのだと思う。
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