劇場公開日 2018年1月27日

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「日本映画に鬼才は不要」祈りの幕が下りる時 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5日本映画に鬼才は不要

2020年7月11日
PCから投稿

場面転換で俯瞰になり景勝がぐわーっと寄ったり引いたり流れたりします。それが何度もあります。きれいな景色で、きれいなパンです。

撮影に腐心しています。40年の歳月を往き来する伊藤蘭や山崎努や烏丸せつこの顔のエフェクトにそれがしのばれます。伊藤蘭がまるで竹内結子のように見えます。

メイキャップなのか特殊撮影なのかは不明ですが「時代」が観る者を惹きつけます。
観る者の年齢に呼応して役者の実年齢とは違う姿が興味深いのです。
それが小説では得られないノスタルジアを呼び覚まします。

時間が過去と現在をまたぐのと同様に場所も東西をまたぎます。
日本橋、琵琶湖、女川原発。
紀行を見るような楽しさと一瞬の場面転換で訪れる心地よさ。
行く先々で広々した景色がぐわーっとパンします。
そのシーナリーに身を委ねながら松本清張のように緊迫した筋が展開していきます。
つながるとは思えない事件から巡り巡って加賀(阿部寛)にたどり着くまで、ほとんど息つく暇もありません。見事な演出でした。

松宮(溝端淳平)が訪れた浅居(松嶋菜々子)の仕事場で偶然一枚の写真を目撃します。スローモーションになり写真にズーム。かぶるナレーション「ひとはうそをつく、じぶんをまもるため、だれかをまもるため……」
寄った写真には加賀と浅居が並んで写り、背景には日の丸、そこへタイトル。
このロールは思わずうめいてしまったほど鮮やかでした。

松嶋菜々子の、追い詰められたとき、憎悪にかられたときの顔面神経痛のような顔芸は圧巻です。演技を意識して見たことのない女優でしたが、その凄みに気付かなかったのは浅はかでした。

中盤を過ぎると、過去へ飛んで種明かしの真相が語られます。
愁嘆場と悲愴なオーケストラが続き、やや暑苦しさがありました。

独立し完結する映画ですがシリーズの軽さと笑いも併せ持っています。
加賀が名店に並ぶと、いつも直前で品切れになります。それが阿部寛の高身長とローマ顔によって滑稽な絵になるのですが、誰一人阿部寛を意識していない巧みなロケでした。

どこにいたとしても目立つはずの阿部寛に誰も見向きもしないのが、かえって笑える絵になっているのと同時に、人形町明治座通り甘酒横丁小伝馬町水天宮……下町に通じた加賀が、あたかも柴又の寅次郎のように界隈に馴染んでいる様子にほっこりできます。

TVで長いキャリアを持つ監督のようですが、現場で培われた野村芳太郎のような仕事ぶりを観て、日本映画に鬼才は要らないと思いました。日本映画に必要なのは、個性やアートではなく職人です。──つくづく、そう感じた映画でした。

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津次郎