「がんばったという虚栄」RE:BORN リボーン 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
がんばったという虚栄
カラダをはったアクションシーンという言い方があります。
さいしょから勘違いしているのですが、カラダを鍛えて訓練し、すごいアクションシーンを撮ることは、映画のダイナミズムに直結しません。
映画の根本技術はカラダをはらなくても、躍動的なアクションシーンとして見えるようにすることだと思います。
俳優が、美しくシェイプすることは重要ですが、アクションは監修や撮影や演出がみせるものではないでしょうか。
この「カラダをはったアクション」は、制作陣の勘違いですが、さらにみょうな弁解をも、もたらしています。
それは「カラダをはっ」てることが、とても気高くて誠実な方法論である──というエクスキューズです。
かれらには、おれたちは毎日筋肉痛をかかえながら、ものすごくがんばって高徳な映画をつくりだしている──という勘違いとエクスキューズがあります。その、すさまじい承認欲求が、画からほとばしるように、観衆へ放たれています。
そこへ親切な観衆が、ねぎらいの感想を述べます。いいとかわるいとかでなく「いやあ、おつかれさまでした」という感じの批評です。
おれたちはカラダをはってつくり、評価も得た──となれば、もはや制作陣にも出演陣にも、付ける薬はありません。
話そのものが弱者エクスキューズからの窮鼠という百姓一揆みたいな代物でした。こんなクサい映画、どこへも輸出しないでほしい。そんな映画でした。
異能や火器や腕力のないブラックウィドウは、状況判断力と運動神経を最大限に使って、危機を脱し、半身も違う男たちを倒していきます。正面から行かず、回り込みます。拳でなくエルボーを使います。首にまたがって、グルッと全体重をかけて、男を横倒しにします。圧巻のダイナミズムです。
つまり、どう考えても、もっと、すごいアクションシーンを、わたしたちは映画で見ています。予算に応じて、下野し、熱演を、ねぎらう必要があるのか、ないのか。あるのだとすれば、いったいそれはどんな映画見地なのかを考えさせられました。