劇場公開日 2017年11月10日

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「二項対立を消し去ることはできない」ザ・サークル nagiさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0二項対立を消し去ることはできない

2017年12月1日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

酷評されているが、現代の社会背景を巧みに汲み取り、批判した、良作だと思う。

「サークル」の宗教観は(これはエマが提案したものだが)真の民主主義は極度のアカウンタビリティによる個人の透明化によって実現されるというものだ。SNSで自らの全てをシェアする。そうすることで常に誰かの監視下に置かれるわけだ。すると、犯罪が起きることはなくなるし、身の危険が迫る時には誰かが助けてくれる。これが彼らの考える理想国家のあり方である。私はこれは、理論上ではアリであると思う。

しかし、やはり極論というのは常に机上の空論でしかありえないのだ。亡くなった幼馴染や、エマの家族らのように、プライベートを必要とする者もいる。パブリックが存在するとすればその世界には必ず補集合としてプライベートが存在しているのである。これは全ての事象に当てはまるのであろう。(この集合、補集合の概念は我々人間が勝手に決定した境界に過ぎないという考えはさて置くとして。)

であるから、この世界から個の保証を消し去ることは殆ど不可能なのである。この世は二項対立が複雑に絡み合ったカオス空間だ。人間におけるその様々な作用素の拠り所が倫理であろう。

モラルとは、基本的に守られるべきものである。普遍的なモラルの原則は「良く理解した大部分の公衆が真と認めるもの」と考えられる。ここで「良く理解した」の部分は前提として非常に重要である。さらに「普遍」とは「不変」とは大きく異なる。ある時代で良しとされていた事柄がある時代では認められていない事例など、数え切れないほど存在する。であるから、「普遍的原則」をたった1つに確立させることは容易ではないのだ。「普遍的原則」も「絶対に普遍」であることはありえない。故にその追求は個人の責任で行われるべきであって、それを追求する姿勢が倫理的なのだ。

大衆が、完全な透明化が「普遍的原則」であると主張したとしても、それは絶対普遍ではない。必ずそこに補集合が存在し、その間に混沌が生まれ、綻びとなってゆく。これがエマ始め、彼らの失敗である。

また、内部告発は「組織への個人的な恨みや復讐が動機ではないこと」や「内部での解決の努力の尽くした上で行うこと」がモラル的な条件に挙げられる。エマはラストシーンでトム・ハンクスを吊るしあげたが、これは以上の事項に適合しているのだろうか。反モラルの企業が反モラルの社員に崩壊させられるとは、皮肉な話であろう。

長々書いたが、まぁつまるところ、エマ・ワトソンが尋常じゃなく可愛いということなのである。

nagi