「この修道士は しゃべりすぎる」修道士は沈黙する Lynkeusさんの映画レビュー(感想・評価)
この修道士は しゃべりすぎる
自分の主義主張が「自分の」主義主張であることを隠すための「隠れ蓑」としてキリスト教っぽさを身にまとい、主張を展開するための「小道具」として修道士を選び、主張を正当化するための「武器」として小鳥や犬を利用する監督の手法に嫌悪を覚える。
監督は某・新聞のインタビューに「主人公として修道士を選んだ」と言っているが、「選んだ」すなわち「利用する意図」が裏目に出て、主人公にはキリスト者としてのリアリティが欠けている。
新聞記事には監督が「特定の政治イデオロギーを主張するものではない」と強調していたとあるが、悪意ある商人ほど「無理に何か売りつけようという気はないから安心してご来店ください」と言うものだ。
この監督の主張の是非はさておき、それが自分の主張であることを隠して(代わりに例えばキリスト教を利用して)主張を展開する手法は卑劣だ。また、自分の考えを正当化するために「キリストはそれを望まれる」的な文言を濫用するのも、もしも修道士が行ったとしたら恥ずべきことだ。また、告解は「生き方について議論する」場ではないし、まして、政治的な取引の場であってよいはずはない。また、葬儀を、司式者(聖職者)自身が天下国家を論ずる場にしてはいけない。
そもそも、財界のトップはこの映画ほど暇ではないし、権力者=悪人=心の中はとっても不幸、などという先入観をもって人間を描いたら、登場人物は息づかない。メイ首相が真夜中にメルケル首相の宿泊先の部屋をノックして「眠れない女どうしでお話しでもしません?」と入ってきて「とかくエコノミストって〇〇な傾向がありますよね~」なんて雑談する、とか、安倍首相が「あなたの気持ちはアジア人の私にはよくわかります」とトルドー首相を慰める、的なシチュエーションは、現実にはありえない(第一、日本人が自分を「アジア人の私」なんて言うか?!)。つまり、「世界経済を動かす各国代表が集まった」という設定でこの映画がスタートした時点で、残りの台本には全て無理がある。
その中でも最も「無理があり」また「有り得ない」のが「しゃべりすぎる修道士」だった(笑)