三度目の殺人のレビュー・感想・評価
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福山も僕らも…誰一人犯人には追いつけない群盲のまま。
この映画は法廷劇ではない。
接見室での犯人と弁護士の会話の積み重ねが重要であり、それを中心にひたすら淡々と犯人と弁護士、様々な人々が描かれてゆく。やがてそれらは徐々に凄味を増してゆき、やがて第三の殺人として犯人自身を殺すことで確かに何かが成就するのだが......。
役所広司演じる犯人三隅は、誰よりも優しく弱い。そして何よりも強い意思を持つ掴みどころのない人物だ。人の思いに感応して殺人を犯し、先回りをして言動を変えてゆく。彼は言わば現代に出現した妖怪サトリ的な人物なのかもしれない....ふとそんなことまでも思わせるような存在だ。そして人を殺すことには罪悪を持たないソシオパスでもあると確信している。
ラスト、結審後に接見し三隅の真意を掴もうとする重盛。ここで会話する二人の顔を仕切りガラスで重ねる手法が圧巻なのである。犯人と重なりそうで重ならない顔。これほど犯人の真意に届きそうで届かないことを巧みに表した演出はないないだろう。
そして僕らは福山演じる弁護士重盛とともに犯人の真意に手が届きそうになる刹那---「あなたは入れ物?」「何ですか?入れ物って」....ここで重なりかけた二人の顔は完全に離れてしまう。そう、犯人はすべてを突き放して物語は終わる。劇中で「群盲象を評す」の故事が語られるが、まさに我々は群盲のまま、犯人を掴めないままにこの物語は終わるのだ。これはすごいラストだと思う。
決して興行的には大成功にはならないだろうが、こんな映画が生まれるのだから日本映画もまだまだ捨てたものではないと思わせる作品である。
----以下雑感(笑)
市川実日子は、どうにもシン・ゴジラのリケジョのイメージが強く、見るたびどうにも蒲田君が浮かんでしまったw
斉藤由貴は、娘の凶悪な厄災に目をつむり、夫の事業の不正を隠ぺいしながら諾諾と生きるの女という役回りが、いまの不倫騒動と相まって非常に感慨深い。
深いです
役所広司の演技がすごい…
1秒も目が離せない
まず驚いたのは役者の皆さんの演技力。
特に福山さんと役所さんの演技に本当に引き込まれました。
ストーリーも最後の最後まで誰が犯人か、誰が嘘をついていて誰が真実を言っているのか全くわからず、真実はなんだ?!と思っていたらまさかのエンドロール。裏切られた!モヤモヤする!(もちろんいい意味で)
もちろんこの終わり方に賛否両論だとは思うが、伏線を全て回収しなければいけない、謎を残してしまってはいけない、ハッピーエンドでなければいけない、という最近の映画の傾向に抗ったことが素晴らしいと思う。そもそもそういう考えが最近の映画やドラマをつまらなくさせていると思う。
映画作家としての思い
是枝監督の映画作家としての思いの詰まった作品だったのではないでしょうか?
近年の映画産業はコミックの無理な実写化ばかりでウンザリする中、この映画の様にオリジナリティに溢れた映画は好感が持てます。
犯罪劇とは言え、ミステリーとしての要素は少なく、邦画独特の湿り気と淡々とした展開に退屈される方も多いと思いますが、刑務所での弁護士と被告人の接見シーンは主演二人の力演でなかなか見応えのあるものになっていたと思います。特に福山雅治にとっては、二枚目から大人の俳優としてのステップアップになったのではないでしょうか?(くれぐれも、いつまでもイイ男しか演じられないk.tの様にならないように。)
ドラマは一応の解決を見せるが、真実はあやふやなままで余韻を残してくれます。
十字架と神の器
この映画には十字架のモチーフしつこいくらい登場する。
この映画の登場人物もそうですが人間は自己中心的に生きています。その人の本能とまったく逆の行動をとったのがイエス・キリストでした。イエスは人のために仕えるため、人の罪のための贖いの代価として十字架上で死んだのです。 今これを書いている僕や読んでいるあなたの罪のために死んだということです。十字架はやはり気になる。
「個人的な怨恨は感じられず、空っぽの器のようだった」と最初の事件を担当した刑事が役所広司を評していう言葉。「空っぽの器にすぎない」という役所広司の最後の台詞も気になりました。
登場人物がみな嘘つきで誰が真犯人なのかよくわかりませんでした。接見室で仕事人間の福山雅治が役所広司に翻弄され、やがて取り込まれていくのを非常に面白い映像で表現がされていて面白く見ました。
司法とは何を守るためのものなのか
面白かった〜
一度目の殺人で、娘につらい思いをさせてしまい
二度目の殺人で、娘の願いを叶え
三度目は自己犠牲で娘を守った
殺人犯の三隅
主人公の弁護士・重盛は娘のそばにいられない自分と三隅を重ね合わせ
冷静な判断をくだすことができない
本来なら、法廷が市民を守るべきはずなのに、「善悪」よりも「勝ち負け」にこだわるあまり、真実に蓋をし、彼らが決めたシナリオに沿って、裁判は進められていく
結局、本当に裁かれるべき人間は、裁かれないまま闇の中へと葬りさられる
この中で、救われた気分になっているのは、「自己犠牲」で神にその身を捧げた三隅かもしれない
真実は神様だけが知っている
生きているだけで人を傷つけるの意味
生きているだけで人を傷つける存在、という言葉が気になりました。
そこまで自身の生に否定的なのは、自分が生まれてはいけなかった存在、不貞の末の生、近親相姦からの生が想像できる。そうした生の真実を知ってしまった存在は生まれながらの罪を感じながら生きざるをえなかっただろう。もしかしたら、実際のところ理由がわからない最初の殺人もそこにつながっているのかもしれないと思った。
そこから今回の殺人の真実を探ろうと思うと多方向からの情報が絡み合ってひとつだけではない真実がみえてくる。
三隅から葉書を受けとるほど信頼されている重盛父裁判官のあえてつきはなしたような言葉や態度の理由、結局会えなかった三隅の娘、社長が娘を犯す、娘が夫に犯されているのを見ぬふりする母親。レイプ犯罪を言わせない弁護士。真実を求めない法廷。
頬の血をぬぐう三隅と咲江、頬の涙をぬぐう重盛はラストシーンの十字路で立ちすくむ。
三度目の殺人を犯したのは誰か?殺されたのは誰か?
作り手、観てる者それぞれが考える、そんな映画でした。観た側の考えに任せるというちょっと作り手の傲慢を感じる映画なのですが、役所広司さんがとにかくすごくて、他の俳優陣の力と引き合い、良い映画を観たというより、凄い演技を観たという作品になりました。
レビューというか吐き出し。
想像のつきやすい人がよく出てくる。
でもそれは想像であって本当はどうなのか、
確かめてみないとわからない。
過去に何かあったからこうなった、と簡単にいえない、とか。こういう人はこういうことをするんだ、みたいな根拠のないこととか。?
本当にそれでいいのか、色んなことを自分のなかで確かめながら生きてるけれど、正しいか正しくないかなんてはっきり言えるものがない。
なんというかそういう意味で現実的な話なんだけど、
ドラマとか映画でよくいる人たち?を出すことでつくり話っぽくなっているのかな。
どういう見方をすればいいのか迷った。
殺人ってこのたった2文字だけでえらく悲劇的なもののような気がするけど、ただ単に人を殺すって意味でなら、ああ、三度目の殺人か〜って納得。できる気がする。笑
是枝監督さんの世界観
この作品は、ある殺人事件があり、法廷で裁判が行われるという、最近では日常的とも思えるような刑事裁判がテーマです。
一つの事件の真相を解明することは、裁判に関わる法曹界のそれぞれの在り様で人が人を裁くと云うことであり、判決の一つ「死刑」それは言い換えれば殺人とも言える訳です。
裁判員裁判が現実に行われており、もし自分が裁判員に指名されたらどうするかと云うことを考えると、登場人物の台詞の中から思い起こされ、普段何気なく遣り過ごしてきてしまったことが当事者として起こり得ることもあるかと、怖いように思えてきます。
犯人と思われる、役所さん演じる三隅に翻弄される福山さんが演じる弁護士は、観ている私達の身代わりの姿でもあり、監督さんは、他人事ではなく自分自身が拘わることも有り得る事への思慮の喚起を促すため、接見の度に被告人の態度を変化させる手立てを採り、そして敢えて最終弁論を言わせる場面を作らなかったのではないでしょうか。
恐らく、監督さんの答えは出ているけれども、台詞から読み解いて貰うという演出手腕で、観劇者一人一人に判断を委ねることが、この「三度目の殺人」と云うタイトルにした所以ではないかと、私は今のところ考えています。
映像と音楽、そして出演者の方々の存在感、演技力には感心させられ、美しく素敵な役者さんの姿に魅せられました。
現在、難病を患っている旦那さんと観賞しました。
時間的に耐えられるか心配もあり、寝ているかもと横目で見たらしっかりと画面を直視していました。 本人は、「真剣に考えながら観たので、とても面白かった」と 。 考えることの刺激によるのか、ドーパミンの働きが良くなったようで、近いうちにまた観に行こうと自分から言い出し、福山の歌が聴きたくなったと言うのには笑ってしまいました。
おかげさまでその日は映画談議が弾み嬉しかったです。
ハッピーエンド、又は悲劇に終わる「起承転結」のはっきりした作品を楽しむことを一つの要因とするなら、この作品の終結のあり方の意図を汲み取り、考えあぐね、または意見交換をすることも映画の醍醐味を愉しむ一つではないかと思えています。
レビューの中には、つまらなかった。 もやもやした気持ちになり意味が解らない。 との意見もあります。
恵まれた環境で幸せに暮らして来られたのかなと思えたり、出自などの違いでも受け止め方は違うのだなと云うことを感じ、読まさせていただくのも参考になりました。
器
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映画が終わった頃に三度目の殺人が終わるところにこの映画の趣旨を感じられた。
三度目が自分を殺すことだったことを感じる空間のシーン。
あの空間のシーンが多かったのも、
三隅の心情を投影したかったのか
「あなたは、器ですか?」というセリフで締められたこの作品。
最初も途中までも終わっても
犯人は分かっていても
劇中では明らかにされず、
モヤモヤと終わった後に感じずには
いられなくなるものになっているのも
この作品の一つの醍醐味だと思う。
心理が好きではない人には
オススメはしない。
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No Pain No Gain (何かを失わなければ何も得られない)
容疑者、弁護士、検事、裁判官、被害者家族など、
立場により観方を変えると、
「正義」さえも変わってしまいます。
咲江とにとっての正義は、
「娘をレイプする父親は殺されて当然」です。
弁護士事務所にとっての正義は、
「裁判に勝つ事」です。
美津江にとっての正義は、
「食品偽装しても会社を守る事」です。
しかしながら、
弁護士・重森にとっての正義は
三隅と接するにつれ、変化していきました。
「勝つ事」から「勝ち方」へ
そして、「弁護人を信じる」へと。
三隅は、「生きていれば他人を傷つける悪者」と
自己評価しながらも、「咲江」を守ろうとしました。
三隅にとっての「正義」です。
しかしながら、
最後に重森が三隅に対して発した
「空っぽの器」の理解は難しい。。。
私は、次の様に感じました。
重森は、仕事を重視するが故に、家庭を失いました。
しかし、もしも、家庭を重視していたら、
重森の今の名声は無かったかもしれません。
"No Pain No Gain"「何かを失わなければ、何も得られない」
のです。
また、三隅は「生きているだけで他人を傷つけてしまう」と
自己分析しましたが、重森も、
「裁判に勝ち続ける事は、ある意味も他人を傷つけてきた」と
感じていたはずです。
すなわち、重森は、三隅が自分に似ていると感じていたのです。
三隅は、
30年前に殺人を犯し、今回、2回目の殺人を犯した容疑者ですが、
この裁判で、
「三度目の殺人」すなわち自分自身を殺してしまったのです
自分の命を捨てる事で、咲江の正義を守ったのです。
こんな三隅の生き方が、
重森は、自分自身の過去の生き方と重なってしまった。
「咲江の持つ正義感を中身として、三隅自身は、器に徹した事で、
咲江を守れた」
言い換えるならば、
「器だけとなり中身を捨てる事で、咲江の正義を得た」
のではないかと思いました。
Michi
やられた。
薄い
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